2007年06月26日

第百四十六回「キャンドルナイト2007」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 先日のイベント「キャンドルナイト2007」は、「でんきを消してスローな夜を。」という言葉を掲げて同時多発的にさまざまな場所で開催されるイベントのようで、ボクが参加させてもらったIID世田谷ものづくり学校以外でもさまざまな形で実施されたものであるらしい。

 IID世田谷ものづくり学校でのイベントは、朗読会やライブ、常設のカフェでもキャンドルのあかりのみで営業、と話を聞いただけでドキドキしてくるようなステキな企画が盛りだくさんだった。

 参加料は500円で、これは一人ひとりに渡されるオリジナルキャンドル代も含んでいるという破格のもので、基本的に予約制、ボクは今になって知ったのだが、開催前に予約分は終了していたらしい(限定300名)。

 昨年のイベントの状況から、お客さんはいろんな会場を回遊している場合が多いようで、実際紙芝居をやっているときも人の出入りが(それほど気にはならないが)少しあった。ただ、ほぼやっている間中満席状態だった(立ち見の人もいた)ので、ランタンと人の熱でちょっと暑かったのが気になったくらいだ。

 そうして、このイベントでボクがご一緒させていただいたのは、江戸紋きり型の本を出版された下中さんという方だった。江戸紋きり型とは、もともとは家紋の切り絵型だったらしいが、遊びごころ満点の江戸の人の手にかかって色々な図案が編み出されて、おまけにそれを影絵として遊ぶくらいに発達したいわゆる「芸」であるらしい。

 特に面白かったのは、棒の先のキツネの影絵が、ほんの少し棒を回すと女の人の姿に変わるものだ。これは見ている人から大きな歓声があがるくらいシンプルだが素晴らしいものだった。初期紙芝居の立ち絵の影絵バージョンともいえる(もちろん、紋きり型の方が歴史的に古いのではあるが)。

 また、イベントが終わって片づけをしているときに、その影絵のお手伝いをされていた方から、「昭和のくらし博物館」というこれまた興味深い施設の話を聞いた。古民家をそのまま生かしたという博物館の建物だけでもおそらく(いや、絶対に)見る価値はあるだろう。その方は、以前深川の図書館で肉筆紙芝居を借りてそこで上演させてもらったこともあるとか。
 
 深川の図書館に肉筆紙芝居がある(らしい)ということもそうだが、昭和のくらし博物館でそういうイベントも出来る、ということも驚くべき情報だった。

 この出会いはとてもよいものだった。IID世田谷ものづくり学校のスタッフの方々は、下北沢でのライブを見てオファーをいただいたのであるし、そのARTISTはもともと知り合いが出演していた縁でお世話になるようになったのだ。そのほかにも、本当にいろいろな方々と出会うことでボクの活動範囲はどんどん広がっている。思えば本当によい出会いをしてきている、とわれながら思う(ただ、それを生かしきれていない自分が歯がゆいのではあるが)。

 とりあえず近々にうちに、昭和のくらし博物館に行ってこようと思っているのである。

 そんでまたこのコラムでご報告したい、と思う。

 IID世田谷ものづくり学校
 http://www.r-school.net/cld/

 というわけで、続きは明日のお楽しみ!

2007年06月25日

第116回『あだ名』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 このコラムがアップされる頃には、池袋にて本番を迎えている。

 今回の公演は、お互いに全く知らない役者・演出家・作家が一堂に会し、コメディを創った。

 初めて出会う仲間同士、お互いに勝手も癖も分からず探り探りだったものが、最初の3日間くらいでスグに打ち解けることが出来たのが、今回のカンパニーのいいところの1つだ。

 いい仕事をしようと思えば、やはり早めに仲良くなるに限る。

 初めて集まる場合、私達は“ワークショップ”をやるコトが多い。私達の言う“ワークショップ”とは、即興で演技をしたり、ココロとカラダを開放するトレーニングなどをするコトであるが、今回のカンパニーがスピーディに仲良くなれたのは、“名前オニ”をやったからではないだろうか、と考えている。

 “名前オニ”というのは、基本的には鬼ごっこだが、オニにタッチされそうになったら誰か他のヒトの名前を呼ぶと、名前を呼ばれたヒトがオニにかわるという、少し変わったルールがある。

 名前を呼ばなければならない以上、まず覚える必要がある。覚えるには本名よりあだ名の方がいいので、大概あだ名をつける。

 あだ名で呼ぶ相手というのは通常、ある一定ライン以上親しい関係になったヒトたちであるが、“名前オニ”をすると親しくなる前に既にあだ名で呼び合うコトになる。

 これが不思議と、仲良くなるためには効果的なのだ。互いをあだ名で呼び合うコトによってお互いが親しいものと錯覚するため、遊び終わった頃にはそのままあだ名で呼び合い、和気藹々とした関係が構築されている。

 “名前オニ”からスタートした今回のカンパニーによるお芝居は、あたたかい作品に仕上がった。
 もし、新しく集まった集団における空気が硬いような気がしたら、是非あだ名で呼び合うことをお薦めする。出来れば“名前オニ”をするのが1番だけど。

2007年06月19日

第百四十五回「境界線上の……」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 このコラムでは何度か書いているが(そうしてそのたびにあっちへ振れこっちへよろめいたりしているが)、表現者としての自分の立ち位置については、いまだに悩んでいるのが正直なところである。芸人なのか、パフォーマーなのか。街頭紙芝居屋なのか、「紙芝居をやってくれるオジサン」なのか。役者なのか朗読者なのか。あくまでも肉筆紙芝居にこだわるのか、印刷紙芝居、あるいはオリジナルの紙芝居も含めて演じていくのか。

 それはつまり、「誰に向けて紙芝居をやるのか」ということに尽きると思う。

 そうして、それはボクの場合、「すべての人」というとてつもない広がりを持つ対象になってしまうのだ。われながら怖いもの知らず、という感じであるが。

 そう。子供から大人まで、そうしてできれば国籍も超えた人々に、数枚の絵の描いてある紙を元に物語を語る(そうして体で表現する)、そんな紙芝居をやりたいと思っているのだ。ただ、あくまでも出自は街頭紙芝居という誇り(や、実際に街頭紙芝居で稼いでいないボクがいうのはおかしいけれど)を忘れずに。

 つまりそれはどういうことかというと、見せたい対象にこちらから歩み寄るというより、強引にでも何でも、こちら側に引っ張り込みたいのである。巻き込みたい、といってもいい。

 あー、理想が高い、というか、かなり無理な(そうしてある意味失礼な)願いだということは重々承知である。

 それでも、ボクのやりたいことというのは、つまりはそういう方向なのだ、と最近特に思うのだ。それまでは、とにかく「自分が面白いことがやりたい」という小学生レベルのことしか頭にはなかったのだけれど。

 先日の八王子でのイベントで、自転車でやるということにかなり自信がもてたので、今後はできるだけ自転車に紙芝居舞台をのっけてやっていきたいと思っているし、オリジナルもどんどん作っていきたい。それと同時に、肉筆紙芝居も新たな作品を制作していきたいと思っているのだ。

 さて、今月は新たな展開として、キャンドルの灯りの元、紙芝居をすることになった。6月22日(金)、世田谷のIID世田谷ものづくり学校の「キャンドルナイト2007」というイベントで紙芝居を上演する。共演は、公園での紙芝居定期上演やイベントにも積極的に参加しているユーダイ座さん。以前からお名前だけは聞いていて、今年ご自宅にお邪魔した街頭紙芝居屋の永田さんのお話にも出てきた紙芝居屋さんだ。

 彼のHPを見ると、やはりその目指すところは微妙にボクとは違うのであるが、ボクにはない「熱さ」(そう、本当にボクには熱さがないのだw)があって、これまた刺激を受けまくりなのである。

 IID世田谷ものづくり学校「キャンドルナイト2007」
 http://www.r-school.net/cld/

 ユーダイ座さんのHP
 「紙芝居屋さんがはじまるよ〜!」
 http://kamisibai.at.infoseek.co.jp/

 続きは明日のお楽しみ!

2007年06月18日

第115回『ココロとカラダの関係』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 東京へ来て3週間が過ぎた。今月の25・26日に本番を控え(劇団上海自転車HP参照)ココロとカラダの調整に入っている。

 完全アウェイでいろいろと調整しづらく、こないだとうとう風邪を引いて熱を出してしまった。今回のカンパニーは結構いい雰囲気で長引かずに済んだものの(雰囲気が悪いと治るものも治らない)、喉の調子がよくならず、普段の5割くらいのレベルの声で稽古をしている。そこが非常に気に入らない。

 もちろん自分をいたわらず、東京だ!とはしゃいだ結果でもあるだろう。

 喉が如何にデリケートであるか、というコトは、それを商売道具にしているヒトにしかわからない上に、1人ひとり喉の癖みたいなものがあるので、たとえば役者同士でもタニンの喉のコトは正直よくわからない。

 一般的には、冷房がよくないだとか辛いモノや炭酸がよくないだとか言われるが、それは個人差がある。さらに、意味を理解できていないコトバを大きな声で言わされると声が枯れやすいのだそうだが、ワタシは特に、ココロが伴っていないセリフや必要性を感じないセリフを言わされると、すぐに喉がかれる。カラダがそのコトバを嫌がっているのがよくわかる。
 
 嫌なコトがあると胃がキリリと痛くなるように、適さないコトバはワタシの喉を傷つけるのだ。ほんとうにカラダというのはうまく出来ているなぁなんて、子供のように感心してしまう。

 話しはすこし逸れるが、一般的にもカラダが出しているシグナルに気づけなかった、或いは気づいていたのに対処しなかった(できなかった)結果、精神的に調子が悪くなるコトが結構あるそうだ。
 自分の喉のコトはタニンにはよくわからないのと同じで、自分のことはやはり自分でいたわるより仕方が無いものなのだろう。

 ともあれ、のどの調子をベストに整えて本番に臨みたいものである。

2007年06月12日

第百四十四回「矢印はいろんな方向に向いていた方がよい」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 一応東京のはずれに住んでいるので、都内へはよく出かけるのだが、今まで新宿へは何度も行ったことはあっても新宿のゴールデン街へは一度も行ったことがなかった。知り合いが手伝っているお店もあって、いつかは……と考えていた。しかし、外で飲むこともすっかり億劫になってしまった。去年いった唐組のテント芝居はゴールデン街に隣接する花園神社だったわけだが、そこから足を伸ばすことはなかった。

 ただ、田舎のサブカル小僧としては「ゴールデン街」という響きには特別な感慨を抱いているのは確かである。作家や役者やその他有象無象の輩が夜毎飲みながら激論を交わす、そんな魑魅魍魎の聖地が、ボクのイメージするゴールデン街だった。

 そのゴールデン街に、先日初めて足を踏み入れた。

 まさに踏み入れた、という感じである。ゴールデン街にあるバー「流民」というお店で、「紙芝居を肴に飲む日」というイベントがあったのだ。残念ながら、仕事の関係で到着がギリギリになってしまい、ゆっくりあたりを散策(調査?)する余裕もなくお店に直行してしまったのだが。

「紙芝居を肴に飲む日」というのは、マツイ亭ゴジラさんという落語紙芝居を上演されている方の企画で、月に一度、落語紙芝居を3席ほどやるというイベントである。今月から正式に月いちでやることになったらしい。

 お店は、カウンターのみで約10席くらいだろうか、そのカウンターの奥に台を置いて、紙芝居の木枠をセッティングして、上演するのだった。マツイ亭ゴジラさんはカウンター内でお客さんのお酒を作りながら、時間になると出てきて紙芝居をやる。

 演目は「猫の皿」「千両みかん」「芝浜」の3席。

 絵の大きさはA4で、着色はされていない。絵柄は滝田ゆうという漫画家さんの絵を真似ているそうで、これが江戸時代の話によく合う。裏書はかなり忠実に落語を再現した文章が書いてあって、基本的にそれを読みながら、という形である。

 ゆったりとしたテンポで語られる落語紙芝居は、想像していたものとちょっと違った。もっと街頭紙芝居寄りなのかな、と思っていたのだが、これはかなり落語寄りの芸能だと思った。ゴジラさんによると、対象にする客層も「大人の、落語なんかが好きで寄席に行ったりする人」を想定しているらしい。

 テンポ的なことをいうと、「エシバイ」のエモリさんに似ているが、方向性はかなり違う。それはボクが理想とする紙芝居とも違う。だから逆に、とても刺激を受けたし、面白いと思った。

 もちろん、紙芝居といいながら絵に着色されていないのはちょっと残念だったし、長い噺だとダレ場がどうしても出てきてしまうといったところなど、気付いた点はあるが、同じく落語を元にした紙芝居をやっている者としては、非常に参考になるところも多々あった。

 そうして、なんと終演後にゴジラさんとお話をしていて、「紙芝居を肴に飲む日」に参加することになった。そのためには、今ある「後生うなぎ」以外に、最低2本は新作落語紙芝居を作らねばならず、気軽に引き受けたものの、ちょっとだけ後悔しているところである(上演すること自体を後悔している、というより、新作を期限内に作らねばならない、ということに、である)。まあ、一応候補のネタは4つくらい目星をつけたのがあるので、これから構成を考えようと思っているのだが。

「紙芝居を肴に飲む」ことは別として、ゴールデン街という場所にはまた行ってみたいと思っているところである。

マツイ亭ゴジラさんのブログ
「逆襲亭ゴジラ発信「おとなのためのゴジラ的落語紙芝居研究」のココロ」
http://blog.goo.ne.jp/matuiteigojira/

続きは明日のお楽しみ!

2007年06月11日

第114回『地方と東京』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 この半月で、稽古の合間を縫ってたくさんのヒトと話をした。今後も何件か予定がある。
 
 いろいろと話をする中で、“地方”について結構誤解しているヒトが多いコトに気付いた。中でも最も大きな誤解は、「“地方“の方が、芝居がやりやすい」と考えているコトで、最近訂正するのがめんどくさくなってきた。
そんなわけがない。米国人の子供が、いまだ日本人は袴とちょんまげで過ごしていると考えるくらい、大きな誤解だ。

確かに“やりやすさ”が、何における“やりやすさ”であるかにもよる。舞台装置を製作・保管しやすいだとか材木が比較的手に入りやすいだとか、そういう便利さは“地方”の方が有利かもしれない。しかし大体のヒトが金を出してちゃんと倉庫を借りている。
 
やはり文化は“東京“にある。芝居をやるヒトが多い分、目立たない、という問題はあるだろう。しかし、劇場や稽古場の利用料金はさほど”地方“と変わらないし、むしろいろんなキャパの劇場があって羨ましいくらいだ。

文化を消費してくれる人口も“東京”は半端じゃない。チャンスもそこらじゅうに転がっている。ちょっとしたエキストラっぽい仕事ならすぐにありつけるだろう。そしてちょっと自分を勘違いしてしまうヒトもいるかもしれない。

逆に“地方”は絶対的に文化的需要が少ないうえに、センスが立ち遅れている部分もある。“東京”ほど価値観も多様ではないから、あまり前衛的なものをやると理解してもらえない。だからといって消費者に迎合するのも創造する側としてはちょっと違うだろ、と思う。

劇団数が“地方”は少なく目立つとしても、観よう!と思う人間が少なければやっぱり集まらない。そして金にならない。

“地方”は仲間を募るのもひと苦労だ。芝居なんか観たこともない、というヒトがほとんどで、やる機会も観る機会も“東京”にくらべ格段に低いのである。芝居をやってるなんて、ちょっとした変わり者なのだ。

「“東京“から”地方“へ芝居をやりに行ったら、”東京“から来た!というコトで客が集まるのでは」と話しているヒトもチラホラいて、時代錯誤もいいところだなんて思った次第だ。そんなイナカッペはもう存在しない。せめてネームバリューがないと、”地方“でもお客は高いお金を払ってまで観には来てくれない。

“地方”も“東京”もやっているコトに左程かわりはない場合も多く、それぞれにやりやすさ・やりにくさというのはある。ただ、ほんの一握りの物凄いレベルの人々が、確かにいるのは“東京“だ。そういうヒトは下手をすると、”東京“ではなく”世界”にだってお出かけしているくらいだろう。

“地方”だからレベルが低い、“東京”だから高い、というのでもない。確かに六大学は“東京“にあるけれど、”東京“に暮らすヒト全員がインテリなわけではない。

ともあれ新しいものはたいがい“東京”にある。一度はこのやたらめったらヒトがひしめき合っている土地を見てみるのはお薦めだ。

2007年06月05日

第百四十三回「蛇蝎姫と慙愧丸」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 このコラムがアップされるときには、新宿ゴールデン街での紙芝居をすでに見ていると思うが、その話については次回書きたいと思う。

 今回は、平成のこの時代に新しく生まれた肉筆紙芝居「蛇蝎姫と慙愧丸」の上演イベントについて。

 杜の都、仙台を舞台に「猫三味線」上演会など、街頭紙芝居を再生・再評価する精力的な活動をおこなっている「みちのく芸能大学」主宰のすずき佳子さんを中心とした「慙愧丸プロジェクト」による21世紙芝居「蛇蝎姫と慙愧丸」は、原作・脚本をアニメ「ぼのぼの」の監督でもあるクマガイコウキさんが、画を三邑会の作品でも御馴染みの(雑誌「大阪人」の紙芝居特集にもインタビューが掲載されていた)佐渡正士良さんが担当している。佐渡さんは街頭紙芝居全盛期を支えていた、今年で96歳になる現役最後の紙芝居画家だ。

 慙愧丸プロジェクトの公式ホームページを見ると、予告編も見ることができる。

 語りを担当するのは講談師・神田陽司さん。古典のほかにも意欲的な新作も上演している方であり、実は以前舞台の仕事でご一緒したことがある(そのときのボクは一裏方だったので、親しくお話させていただいた、というわけではないが)。

 この「蛇蝎姫と慙愧丸」がなんと7月に浅草・木馬亭で上演されるのだ。それも、「蛇蝎姫と慙愧丸」だけではない、「声をなくした紙芝居屋」こと森下正雄さんの「黄金バット」の口演や、紙芝居の先行芸でもある「のぞきからくり」「写し絵」の上演もあるというではないか!

 街頭紙芝居の裔を勝手に名乗る身として、これを見ずして紙芝居屋を名乗ることはできないだろう。大げさなようだが、そういう気持ちで早速チケットを予約したところである。

 ただ、作品としての街頭紙芝居を復活させるべく製作された「蛇蝎姫と慙愧丸」であるが、一点「講談師の方による上演」ということに引っかかる部分がないではない。浅草の公演では、音楽や照明などかつての街頭ではできなかったことも存分に出来るのだろうが、ぜひいつかはこういう作品を「街頭」で「街頭紙芝居屋」による上演をおこなってほしいものである。

 とにかく、ここのところ紙芝居関係で目が離せないニュースが多い。大阪で元ホームレスのグループが紙芝居をやっていて、今度イギリスで上演する、という話をネットで知った。これについてはまた後日、詳細をこのコラムで紹介できれば、と思う。

 「蛇蝎姫と慙愧丸」公式ホームページ
 http://www.officekoki.com/zankimaru/zanki_index.html

 続きは明日のお楽しみ!

2007年06月04日

第113回『笑いどころ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 寄席を聴きに行った。木戸銭2,000円程度で、4時間近く聴ける。

 ワタシが訪れたところは90席あるかないかの、ホントウに小さな演芸場で、さぞかしお客さんとの一体感が味わえることだろうと考えていたが、やはり芸というのはそんなに甘くはないようだ。

 狭いのだから有利なはずが、噺家によって笑いの大きさもマチマチ、笑いの多い噺家でも笑う客は決まっていて、正直クチが緩んでるんじゃないか、と思うくらい笑う。これはこれでおかしいが、笑わないヒト、酷いと寝ているヒトがいて、一丁前に(失礼)噺家がイヤミをいったりする。これもどうだろうか。
 
 お客もハナから寝に来たわけではないだろう。ジブンに興味を集中させ笑わせるコトのできなかった噺家が悪い。

 あの場が寒々しいのには、ちゃあんと理由がある。まず噺家の、話す方向が悪いのだ。寝ているヒトや仏頂面の客をみて話すのが辛いから、クチが緩んでゲラゲラやっているヒト達の方ばかりみてやっている。

 日常に置き換えて考えたトキ、自分のほうに話してくれていないと感じたら、興味が薄れていきはしないだろうか。はっきりいって、雑談を始めてしまわなかっただけ有難いと思ったほうがいい。

 まだある。ウケテいる噺家とそうでない噺家の間には、当然テクニックの差がある。しかし何よりマズイのは、ハナシの“笑いどころ”を本人が理解できていないコトだ。これが世に出ている噺家さんたちとの間の、決定的な違いではないだろうか。

 芝居の脚本においても、読解力のないヒトは演技が平べったくなってしまう。“笑いどころ”を把握するために、よくよくテキストを読み込むことだ。もしくは、ズバ抜けてテクニックがあるかのどちらかでないと、ヒトを笑わすのはムツカシイ。

ただし“テクニックがある“というコトは、どんな風にいったりやったりすると面白いのかをよく理解できている、というコトで、だからこそ例えば「もんじゃ焼き、そしてあんまき」なんていうまったく意味のないコトバでも、タニンを笑わせることができるのである。

どうせなら、聴きに来るお客さんみんなを笑わせるつもりでがんばってほしいものだ。

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