2007年08月28日

第百五十五回「終演後に役者に会うということ」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 2月8月、興行界は不振だというのは割とよくいわれる話である。特に8月は、夏休みにお盆もあって、日本全国帰省の民族大移動がある中で、一方で観光地へは大挙して人が訪れるわけで、この時期の集客は本当に大変だと思う。

 さて、そんな夏休みの時期に二本の舞台に行ってきた。どちらも知り合いが出ているが、一方はその劇団自体に(その作品に)非常に惹かれるものがあり何度か足を運んでいる。かたやもう一方は、初めて見るところだ。

 で、どちらも終演後、足早に劇場を後にした。「知り合い」にも会わず。

「知り合い」という時の濃淡は当然あって、お互い名前と顔が一致する程度から毎週のように酒を飲む仲まで、さまざまあるわけであるが、一応なんらかのご縁で連絡なんぞを取り合ったり時候の挨拶をしたりする仲で、公演案内などをいただいた場合、予定が合えば極力行くことにしている。舞台に限らず、音楽系のライブでもお笑いのイベントでも、大きな劇場でも小さなライブハウスでも、問題は自分のスケジュールが許すかどうか(あ、それと経済的な問題があるけれどw)である。

 で、音楽やお笑いのライブのときは別として、芝居を見に行った場合、ボクは終演後すぐに脱兎のごとく出口に向かう。そうして知り合いに会わないようにして、帰りの電車の中でメールをするようにしている。

 苦手なのだ。今の今まで舞台上でそのモノガタリの中懸命に演じていた人と「素」の状態で挨拶を交わす、ということが。

 それは逆もそうで、自分が出ているときは少なくとも終演後すぐに自分のお客さんと会いたくない。「折角見に来てくれたんだから、直接会ってお礼をいうべきだ」という正論は重々承知の上だ。

 ボクがもっと若くて演劇経験のない役者だったら、おそらく周りからはそんな態度をとっていることに対してかなり攻撃(説教?忠告?)されるかもしれない。が、長生きはするもので、そんな失礼な行動も長年やり続けることによって「あの人はそういう人だ」という認識を持ってもらえるのである(ま、その時点で人間の評価としては終わっている、という見方もできるかもしれないがw)。

 周りには芝居を見に行ったら終演後はもちろん役者と挨拶を交わし、あまつさえ一緒に飲みに行ったり打ち上げに参加したりする人が多いこともよく知っているし、それが次の自分の活動につながることも理窟としてはわかっているのだが、それがボクにはどうしても出来ない(こんなことを書くと、終演後役者に挨拶をする人や飲みに行く人を暗に非難しているようだが、まるで逆なのである。ただ、それが出来ないヤツもいるのだ、というだけの話である)。また、そんな損得の話ではなく、直接芝居の感想をいう機会として、終演後のロビーや飲み屋というのは格好の場所であるだろう。だが、ボクには出来ない。よいにしろ悪いにしろ、頭の中がまとまらない、というのもあるが、メールでも当たり障りのないことしか書けなかったりする。だから、単純に頭脳の問題だと思う(といって、評論家気取りで単なる感想をいわれるのも、いわれる方としては迷惑なだけだろうが)。

 そんなわけで、以前一緒にイベントに参加した弾き語りの若者から歌の感想をしつこく聞かれて困ったことのあるボクとしては、ライブや芝居が終わった後いかにスムースに帰路につくか、というのは重要な問題なのである。

 つづきは明日のお楽しみ!

2007年08月27日

第125回『カタから入る』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ボヤッとしているせいか、お店に入ると大概店員さんにつかまる。ピンク色のスカートなんかを手にとってジブンにあててみていると、「そのスカート気になっちゃいます?」なんて言いながら、笑顔の張り付いたような女性店員が近寄ってくる。

 「ピンク好きなんだぁ?」
 「ええ」
 「あーなんかわかりますー、雰囲気的に似合っちゃう感じするしー」

 …初対面なのに何故このヒトはタメグチなのだろう。“似合っちゃう感じ“とは何だろう。そもそも似合うなんて思っても無いのが丸わかりだし、とりあえずその意味のない笑顔は気色が悪いのでやめた方がいい…。

 そんなコトをアタマの中で考えながら、「ちょっと考えます」と言ってお店を出る。

 “お客様には笑顔で応対“と誰かに教えられてやっているのかもしれないが、ココロが伴っていないのでどうしてもそういうカオのお人形に見えて気色が悪いのだ。ココロの伴わない表情やコトバ、動きはヒトを不快にさせるだけである。

 芝居においても同じコトがいえる。例えばムカシ、何かを決心した演技をやる際に“下を向いた状態で、すばやくカオを斜め上にあげると決心したように見える”と要らぬコトを教えられて実行していた役者がいたが、“決心した”というココロの動きが伴っていないので、正直そういうクビの運動にしか見えない。

 ただし狂言などの、表現として昇華されているものは別である。

 デジタルなモノに慣れ過ぎているせいで想像力が欠如し、ココロがこもっているのかどうか自分すら気づけないのかもしれない。

 まあもっとも、ジャンルによってはカタばかり重視して、完全に人形にしか見えないようなショーをやっているヒトタチもいるけれど。それは畑が違うというか好みの問題なのかもしれない。

 お客に対して笑顔で対応するコトが重要なのではない。もちろん笑顔がいらないわけでもない。教えるとなるとどうしてもカタを教えるコトになってしまうのもわかる。しかしせめて、見掛け倒しのワンパターンな接客はやめて、お客さん1人ひとりとちゃんと向き合って会話のできるようなヒューマンスキルを磨く努力をして欲しいものである。

2007年08月21日

第百五十四回「見世物稼業」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

「見世物稼業 安田里美一代記」は、つい先日読み終えた聞き書き本のタイトルである。

 人間ポンプとして全国を巡業、テレビでもその芸を披露した安田里美さんの語る大正・昭和の芸能史でもあるこの本は、ボクたちの世代でかろうじて生で見た記憶を持つ「見世物小屋」に携わる人々の興味深い話が満載で、一読巻おくことあたわずというべき大変面白い本である。

 見世物小屋……

 地方のお祭り、神社の縁日などで仮設舞台を作り、入り口で賑やかに口上を述べてお客を呼び込む。舞台の上で繰り広げられるのは、奇術や芝居や因果物の見世物(クモ娘、カニ男などなど、それには仕掛けがあるもののほかに、先天的な体の部分の欠落・変形などをネタにしているものもあった)、気合術(腕に針を通したり、目にボタンをいれてそれに紐をつけ、バケツを回したり)、そうして人間ポンプ(碁石を呑んでお客さんのいうとおりの色を出したり、金魚を飲んで糸の先につけた針で吊り上げたり、ガソリンを飲んで火を吹いたり)などなど。犬や猿を使った芝居もあったそうだ。

 そのほかにも、タカマチ(縁日)に立つ同じような仮設舞台にはサーカスやお化け屋敷、ノゾキカラクリなどもあった。安田さんはそんな出し物にも参加したことがあるという。

 こういう見世物芸には以前から興味があったのだが、今回この本を読んでびっくりしたのは、入り口で行う呼び込みの重要性だ。お客さんが多いとき少ないときによって、小屋の中で演じている演者と入り口の呼び込み役が呼吸を合わせてお客さんの入れ替えを調整したりするのだという。

 特に呼び込みのタンカ(口上)は、著者が安田さんの語るそのままを文字に落としているのだが、それを読んだだけで頭の中に浮かぶのだ、朗々と切々と飄々と口上を述べ仮設舞台の入り口付近に集まる人々を誘う安田さんの姿が。(それはたぶん、著者である鵜飼正樹さんと安田さんの絶妙な距離感が文章の端々から感じられて、魅力的な本になっているのだと思うのだけれど、それはまた別の話なのでここでは詳しく触れない)

 全国に沢山あったこうした興行団体は、今では一つくらいしかないそうだ。東京では靖国神社や花園神社などのお祭で見ることができる。

 平成の今の時代に、大正・昭和の見世物小屋をそのまま復活させることができるとは思っていないが、劣悪な舞台の下、間近に迫るお客さんの厳しい(そして冷たい)目に鍛えられたその芸能は、今の時代にこそ必要なものではないか、ボクは思う。

 つづきは明日のお楽しみ!

2007年08月20日

第124回『ミセタイノハアナタ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 お仕事で東京から愛知に芝居仲間が来たので、ささやかな観光のつもりで私が住んでいる地域のテーマパークへ案内した。花火を観るためである。
 夜空に咲く色とりどりの火薬の花は、スモークやレーザー光線そして森のシルエットなどと絶妙なバランスで、瞬間的に1枚の絵画のようにココロに届いては消えていく。

 花火を観て幸福なキモチになりながら、テーマパーク内の植物園のようなところへ入っていった。園内をひと通り歩いて、階段を登り、植物園を一望できるテラスへついた、筈が…。

 建物の構造上、天井を支えるために植物園のど真ん中、手前と奥に2本、かなり太い鉄柱がそびえたっており、全く一望できない。折角のテラスもチカラを発揮できず、無駄に張り出しているのみだ。 

 テラスを作って全体を見渡せるようにしたいのであればその様に設計すべき(植物園そのものの形も他の形でもよかったろうし、鉄柱も分解できる)で、こういったあたりに詰めの甘さというか、サービス精神のなさを感じる。使う側のコトが考えられていない。

 こういうことは至る所で見られるもので、芝居でも観てくれるお客さんのコトよりも、創り手の都合による見辛さやサービス精神の欠如が見られる場合がある。
 ジブンの「楽しい」を優先し、観る側の「楽しい」を二の次にするのはもってのほかだ。

 それを誰にどのように、どんな目的で使って欲しいのか、みせたいのか。プロならばそのキモチありきでモノは創るべきである。

 …そういえば、花火を見ているトキ、彼はワタシを観やすいところへ立たせて、自分は私の後ろに立ってくれていた。彼はステキな役者であり、ステキなヒトだ。

 そう、そういうコト、彼のようなそういうキモチが大切なんじゃないかと思うのである。
 夏も終わりに差し掛かり、ふとモノをおもう花火である。

2007年08月14日

第百五十三回「ちしゃ医者」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 新作落語紙芝居「ちしゃ医者」が完成した。先日の「犬の目」に続いて、短い間に二本も新作を作ったことになって、正直そのことに一番驚いている(自分で作っておいて驚いていたら世話はないのだが)。

 「ちしゃ医者」はもうずいぶん前に故・桂枝雀さんの高座で聞いた噺である。藪だけれど人のいいお医者さんが主人公で、夜中に隣村の老人が危篤状態になり、急遽駕籠をあつらえて出かけるのだが、その途中で老人が亡くなったという連絡が入り、駕籠の先棒を担いでもらっていた隣村の使いの人間も行ってしまい、仕方なく先生と助手が空の駕籠を担いで帰るのだが、どうにも間の悪いことが重なったあげく、ついには……という噺で、枝雀さん独特のジェスチャーを交えた楽しい高座だった。

 ちなみに、「ちしゃ」とは、日本レタスとも呼ばれる野菜で、サラダやハンバーガーでお馴染みの玉レタス(いわゆるレタス)とは違うものだ。

 さて、この「ちしゃ医者」だが、原画が出来上がった段階で一度さらっと流してやってみた。もちろん、細かい部分は上演台本通りではないが、それでも今までの2作とは違って台本にない部分の知識がより必要だということを痛感した。

 たとえば、藪医者よりもランクの低い医者を「雀医者」と呼んでいるのだが、それは「雀は藪を目指す」から、という意味合いでそういっているらしいのだ。が、そのこと自体は特に噺の中で説明はない。また、「お手水屋」という職業(といっても、農家の人の副業)が出てくる。これはわかりやすくいうと、「し尿処理業者」ということだが、現代の業者と違って集めた糞尿を肥料に使うのである。そうしてそのお礼に、育った野菜を持ってくることもあるそうだ。

 そういう、「知っていたらより物語を楽しめる知識」というのは、積極的に調べて噺の流れを壊さない程度に入れていった方がよい、と思っている。もちろんそれは「ちしゃ医者」だけではない。「後生うなぎ」では、仏教用語としての「後生」の意味や、江戸前の「うなぎ」についての知識だとか、「犬の目」では手術シーンがあるから「麻酔」のことなど、直接噺に関係するとか、それがないと困る(噺がわからない)ことではないが、背景として(少なくとも)演者は知っておいた方がよいことは、いくらでもあるのだ。

 そうして、「第3回紙芝居を肴に飲む日」もいよいよ今月25日(土)に迫ってきた。落語紙芝居だけのイベントというのは初めてなので、非常に緊張しているのである。

 つづきは明日のお楽しみ!

2007年08月13日

第123回『魅力的なわけ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 そらがとても広くて陽射しがまぶしい。生暖かいような冷たいような風が吹いてきて、潮の香りがする…。そうか、ここは海が近いのか…。
 イベントの仕事場が海辺のリゾート地にあるので、初めて職場へ赴いたときに、そんな風におもった。

 現地までは電車とバスを乗り継ぐ。同じバスには水着や浮き輪などを持った一般のお客さんも乗っていて、皆、これから待ちに待った夏をおもいきり満喫するのだと言わんばかりに、瞳をキラキラさせて友達と談笑している。

 現地に着いたらついたで子供からオトナの女性までビキニ姿で大はしゃぎしているのが目に飛び込んでくる。皆とてもキラキラ輝いて見える。

 どうしてこう、海辺やら水辺というのは魅力的にみえるのだろう。水しぶきを上げて水面に突っ込んでいく絶叫マシーンを見ながらそんなコトを考えていたら、ふとあることに気づいた。

 状況としては、非日常である、というコト。芝居を観に行ったりコンサートに行ったり…そういういつもと違ったコトをやっているコトによる、興奮状態であるコト。

 また、大概ミズで遊ぶひというのはピーカンな天気のことが多い。そうすると、太陽の光を水が反射して、カオやカラダに当たる。丁度、舞台の上の役者に照明が当たっているような感じだ。だからカオが白く飛び、大変美しく見える。雪山でも同じことだろう。

 さらに、ニンゲンは興味のあるモノゴトを見たりやったりするときは、黒目が大きくなるそうだ。丁度、役者が舞台の上で水を得た魚のように芝居をやっているトキ、とても黒目がおおきくなる。黒い部分の面積が広いと、可愛く見える。

 こういった条件が重なり合って、みんな魅力的に見えるようになるに違いない。舞台役者が魅力的に見えるのも、少なからずこういう理由を含んでいる。

 海やゲレンデで出会ったヒトと、改めて町で会ってみたらたいしたことなかった、というのはよく聞くハナシだ。しかし逆にいえば、モテやすい状態でもあるわけだから、この夏、恋人の欲しいヒトは、ぜひとも水辺へ行ってみると良いだろう。

 それでもダメなら、試しに役者にでもなってみてはどうだろうか。

2007年08月07日

第百五十二回「納涼落語会」

yamasiro
廣島屋でキュ!廣島屋

 先日、地元の大学の落語研究会が主催する納涼落語会に行ってきた。

 実は秋にやはり地元のカフェで寄席イベントをやろうと思っていて、近所であるその大学の落研に声をかけさせてもらったのだ。都内にはカフェで落語をやるところもあるにはあるのだが、普通は寄席以外ではなかなか生の落語に触れることもない。落語がブームという話は聞かないでもないが、それはどこか遠い国のニュースのようで、今ひとつピンとこない。

 だからいっそのこと、自分でやってしまえ!というのが今回の企画の始まりであった。

 といっても、落語家さんに個人的な知り合いはいないし、何よりもろもろ経費をまかなうべき後ろ盾もない状態で、それでも「寄席的」なモノをやるためにはどうすればよいか、ない知恵を絞って考えた結果が「学生落語を巻き込めないか」というアイディアだった。

 学生落語といっても、現在第一線で活躍している噺家で大学の落研出身の人も結構いるようだし、どうしても「学生ナントカ」という呼称にはどこか一段下に見る気配(ニュアンス)があるものだが、若いころから「落語」という演芸に興味を持ってその上演じてしまうという人々がいるという事実は非常に素晴らしいことだと思う。

 納涼落語会は、今年の新入生三人を含めて六人がそれぞれ10分ていどの噺をやり、その他コントも一本、だいたい全部で一時間半くらいだった。意外と、というと失礼だが予想以上にちゃんとした語りっぷりにちょっと驚いた。

 今回のイベントは、地元でやるところに意義があって、なおかつできれば長く続けたいので、そのためのつながりも地道に作っておきたい。最初はそんな思惑もあった。でも、見終わって正直なところ、そんな自分の思惑はどうでもよくなった。とにかく面白いことが出来ればそれでいいのだ。続くか続かないかは、はっきりいえば内容とはまた別の問題で、それだからこそ面白くないモノなら続けてやる必要はない。そんな考えに変わってきたのである。

 寄席には、学生さんの他に、知り合いの芸人さんにも声をかけていて、ボクも落語紙芝居をやるつもりでいる。いつもは女性客多めで、ゆったりと過ごせるカフェで、どんな面白いことが出来るか、またまたワクワクしつつ企画を練る今日このごろである。

 つづきは明日のお楽しみ!

2007年08月06日

第122回『絶対に言わない』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 劇団M.O.P.の『エンジェル・アイズ』が絶賛稽古中だ。公演は8月25日(土)の京都公演が皮切りとなる。
 ということで、作・演出のマキノノゾミさんのおハナシをお伺いしてきた。インタビューの様子は、8月1日発行の演劇専門誌『Confetti』に掲載されている。

 『エンジェル・アイズ』は15年前に上演した西部劇の再演である。舞台で、西部劇だ。“西部劇っぽいもの”ではなくて“西部劇”を創るとなると、これはもうエライコトである。

 その見せ方についてアレコレ聴いていたトキに、とても印象に残ったフレーズがある。
 「エンターテイメントは要するに、ウソをウソだと絶対に言わないもの」

 例えば「ディズニーランド」にはホンモノの動物はいないし、何もかもがゼンブ作り物 ――ウソ―― であるのに、ランドを動かしている人たちは全てをホンモノとして扱う。その徹底ぶりがすごいから、お客さんも最初は照れくさい感じがしたとしても、度重なる非日常的なコトやモノに対して過剰に反応しているよりも、乗っかってしまった方が楽しめることに気づくのである。

 リアルだとか等身大だとかそういったもので表現するのではなく、徹底的にウソをつきとおし、想像力にうったえる。すると例えば、舞台上のただの床が荒野に見えてくる…。

 …ワタシの(コトバの)補足も入ってはいるが、概ねこんな風にとてもわかりやすく、チカラとココロを込めて話してくださった。

 ワタシ自身はコメディを創るにあたってある程度のリアリティは含ませておきたいタイプではあるが、「ウソをウソだと絶対に言わない」というそのコトその部分が、ワタシの考えている、「ポーカーフェイスでコメディを書く」というコトにとても似ているような気がしたのだ。

 笑いを取ろうとしておふざけでやっている(これはウソですよ、といってしまうことに等しい)コトが露骨に表れると、現実に引き戻されてしまう。かといって、あまりにリアルにやりすぎても笑いドコロがわからない。

 絶妙なバランスで創られた舞台は、抱腹絶倒間違いナシなのである。

 …そんなこんなでとりあえず、“馬”をどうするのかが気になるところだ。

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