2007年06月04日

第113回『笑いどころ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 寄席を聴きに行った。木戸銭2,000円程度で、4時間近く聴ける。

 ワタシが訪れたところは90席あるかないかの、ホントウに小さな演芸場で、さぞかしお客さんとの一体感が味わえることだろうと考えていたが、やはり芸というのはそんなに甘くはないようだ。

 狭いのだから有利なはずが、噺家によって笑いの大きさもマチマチ、笑いの多い噺家でも笑う客は決まっていて、正直クチが緩んでるんじゃないか、と思うくらい笑う。これはこれでおかしいが、笑わないヒト、酷いと寝ているヒトがいて、一丁前に(失礼)噺家がイヤミをいったりする。これもどうだろうか。
 
 お客もハナから寝に来たわけではないだろう。ジブンに興味を集中させ笑わせるコトのできなかった噺家が悪い。

 あの場が寒々しいのには、ちゃあんと理由がある。まず噺家の、話す方向が悪いのだ。寝ているヒトや仏頂面の客をみて話すのが辛いから、クチが緩んでゲラゲラやっているヒト達の方ばかりみてやっている。

 日常に置き換えて考えたトキ、自分のほうに話してくれていないと感じたら、興味が薄れていきはしないだろうか。はっきりいって、雑談を始めてしまわなかっただけ有難いと思ったほうがいい。

 まだある。ウケテいる噺家とそうでない噺家の間には、当然テクニックの差がある。しかし何よりマズイのは、ハナシの“笑いどころ”を本人が理解できていないコトだ。これが世に出ている噺家さんたちとの間の、決定的な違いではないだろうか。

 芝居の脚本においても、読解力のないヒトは演技が平べったくなってしまう。“笑いどころ”を把握するために、よくよくテキストを読み込むことだ。もしくは、ズバ抜けてテクニックがあるかのどちらかでないと、ヒトを笑わすのはムツカシイ。

ただし“テクニックがある“というコトは、どんな風にいったりやったりすると面白いのかをよく理解できている、というコトで、だからこそ例えば「もんじゃ焼き、そしてあんまき」なんていうまったく意味のないコトバでも、タニンを笑わせることができるのである。

どうせなら、聴きに来るお客さんみんなを笑わせるつもりでがんばってほしいものだ。
この記事へのコメント
 みんなに話してない人確かにいます。テレビが最近そうだと思います。向こう側で楽しんでるかんじがするんです。

 
Posted by みりん at 2007年06月05日 22:52
“笑いどころ”をわかっていないというのは致命的ですね。
 よく知り合い同士でテレビや漫画などの感想を言っていると、「面白さがわからない」というひとはいます。わたしもさっぱり面白さがわからないものがあります。
 演じ手がわかっていない場合、演劇の場合は演出が役者に、落語では師匠が弟子に伝えるのでしょうが、面白さは「感じる」ものだから限界もあると思います。
 最初はわからなくても、噺家さんは場数を踏むうちにお客の反応を見て工夫ぐらいできるはず。それができる人と出来ない人でも差が生まれるんでしょうかね。
 
Posted by くにえ at 2007年06月05日 23:11
みりん 様

 そうですね。TVにはよくそれを感じます。ブラウン管(という言い方は今はしないんだろうけど)の向こう側にいるヒトたちを意識するのはムツカシイのかもしれないけれど、そういう理屈抜きにただただつまらない・伝わらない、と感じますね。


くにえ 様

 面白いと感じる部分は人それぞれ、といいますが、とりあえず最初にやるのはテキストに敬意を払ってなるたけ忠実に読もうとするコトだろうと思っています。

 しかし、ココまでだとあくまで作家の世界の範囲を出ないので、そこから初めて自分なりに面白いと感じる部分をチョイスして、表現を考えるのがいいのだろうなあと、今の時点では思います。

 自分が面白いと感じることが出来なければ、ウソになるので表現しないのもありでしょう。ただしそれを考え選ぶことが出来るのは、話をきちんと理解したうえでのことだろうとおもいます。

 自分は面白いと感じない、というコトバを逃げにしているヒトもいますし、また
教わるのが苦手なヒトもいますので(笑)本人がケガをしてみるのが一番効果的かなあとおもいます。
Posted by 中野菜保子 at 2007年06月07日 13:54
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