2007年09月24日

第129回『ほな、また』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 さて、先週まで実に2年半の間、1回も休まずに書き続けてきたこのコラムは、本日を持って終了するんだそうです。ちゃんと、その辺りのところはコンテンツの運営をされている方からご挨拶があるはずなので、ここへは書きません。

 開始当初からずっと読んでくださっている方や、コメントを下さった方々、最初っからじゃないけど、たまに楽しく読んでるぜ、という方。いろんな、応援していてくださった沢山の方々に、「ありがとう」と伝えたい。

 久しぶりに覗いて、「え?!終わっちゃったの??」と思われたかた、ごめんなさい。だって終わりは突然のほうがいいと思うのです。そしたらまた、突然再会できるかもしれません。ヌルッと終わると、次に逢うのが気恥ずかしいでしょう。

 普通に、やはり何事も無くコラムを書く、というコトも考えたのですが、性格上ケジメのないのが気持ち悪くてどうしようもなく、いっこうに筆が進まなかったのです。

 ワタシはお芝居をやっているけれど、こういうトキにどうにもウソがつけません。だからこんな、手紙のようなエッセイのような、そんな体裁になってしまっているのですが、今日だけは許してください。

 いいコトを言おうとしても、そのどれもがウソ臭く、白々しい。ワタシのコラムを読んでくださっていた皆さんならば、この感覚は感じとってもらえるのじゃないかな、といいように解釈しています。

 良くも悪くもとても自由に書かせてもらった2年半、すごく贅沢でステキな発表・交流の場になりました。“カタカナ表記の多用“なんていう、ワタシ独特の手法もできました。
 だからこういった場を与えてくださった、コンテンツのスタッフにもとても感謝しています。

 コラムが終了しても、ワタシの演劇人生は続きます。ジブンの人生ですから、変な不可抗力が無い限りは、自転車をこぎ続けます。

 途中、パンクしたりお尻から血が出たり、空気が抜けたりサイドカーがついたり羽根が生えたりするコトもあるでしょうが、そこは自転車。
 どんな高級車もガソリンがないと動きませんが、自転車はね。元気とヤル気・負けん気が主な燃料です。そしてそこへ、みなさんの応援してくださるキモチが合わさって、どっかーん!というエネルギーになります。引き続き、応援してくださいね。 

 
 またどこかで何かをかいたりするトキは、必ず劇団上海自転車HPや個人ブログ『布団草紙』にてご案内いたしますので、ぜひその時はご贔屓に。いま企画段階なので、ちょっと詳しくかけないのです。

 言い尽くせないほどのステキな交流をありがとうございました。
 ほな、また。いつかどこかで。近いうちに!

2007年09月17日

第128回『やってごらん』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 いつだったか、入社してまだ間もなかった友人が、困り顔でこんなハナシをしてくれた。「極力コストが安くて、いい企画を考えろって言われちゃって。全くアイデアが浮かばないよ。」
 
 入社して間もないのに、やはり世知辛いのだなあと思っていたら、後日べつの友人がこんなハナシをしていた。「経費のコトは俺(上司)が考えるから、ともかくなんでもいいから面白いと思うコトは企画書つくってみろって言われて。くだらないコトばっか思いつくよ(笑)」

 なんだヒトによりけりなのか。先の友人はとんだ上司に捕まったもんだな、と思った。親や教師・上司は選べないから厄介だ。

 入社して間もない社員に金の心配をさせるなんて、かなり勿体無いコトである。若くてアタマの柔らかいうちに、誰も思いつかないような発想で売れる企画を立ててもらったほうが、よっぽどか金になる。

 ヒトは何かに縛られるとココロもカラダも緊張してしまい、物事がうまくいかなくなるコトが多い。「〜せねばならない」という人間ばかりが増えると、なんにつけても潤わなくなってしまう。

 ワタシの恩師のしかた先生は、演出をする場合ワタシに対して常に「好きなようにやってごらん」と言っていた。ワタシは責任のある自由を存分に謳歌した。それでも未熟な部分は、しかた先生が責任を持ってくれていた。だからワタシの演出のやり方も、やっぱり「好きにやってごらん」なのである。

 好きにやらせる、というのは責任をもたない、というコトではない。

 上司がちゃんと責任を持ってくれると感じると、かえってしっかりやろうとするのが人間の心理と言うもので、結局“くだらない企画書“は”いい企画書“となって、友人は会社に大いに貢献したようだ。 

 責任の所在をはっきりさせ、安心して発言できる環境を作るのがいいアイデアを効率よく出してもらうための第1歩ではないだろうか。

2007年09月10日

第127回『ぞっとしない』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 文化庁が実施した、「国語に関する世論調査」の結果が発表された。

 現在、所謂“本を読むヒト“というのが100人に1人程度なのだそうで、結果の悲惨さはそれだけでも予想がつく。自分自身ですらモノを書いていて、「おっと、こんな言い回しでよかったかな?」と不安になるコトがあるのだから、あまりヒトのコトは言えない。

 慣用句の誤用として目立つのが「流れにさおさす」(意味間違い)・「そうは問屋が卸さない」(問屋が許さない、と誤用)・「ぞっとしない」(意味間違い)・「熱にうかされる」(うなされる、と誤用)…などだそうだ。

 活字離れも大きな原因の1つではあるが、誤用の原因としてワタシが思うのは、これらの慣用句に対するイメージが出来ていないからではないか、というコトである。
  
 問屋は卸すのが仕事だ。熱にうなされるのは病気のトキ。

 「流れにさおさす」というのは、川を渡る舟に勢いをつけるため、さおで地面を押し、流れに乗るところから来ている。おそらくこの慣用句が出来たころにはそういった風景が日常的によく観られたのに違いないが、今となっては意識的に川遊びにでも行かない限りみられない。
 もしくはTVで、高橋英樹が旅の出で立ちで傘を持って舟に乗っている様子が観察できるくらいだ。

 コトバとカラダが今よりも密接に関係していた頃にできた慣用句は、覚え間違いも多いのではないだろうか。
 やったコトも見たコトもないものはやっぱりピンとこないものだし、イメージができないと記憶にも残らない。そして誤用が始まる。

 これを防ぐには、例えば国語の授業で慣用句が出てきた場合に、@意味とあわせてできる限り語源を説明する(イメージを持たせる)A誤用しやすいと注意を促す。(すでに間違って覚えている相手の知識をハッキリさせることにもなる)B誤用するいい回しとの違いを説明する、など意識的に留意してもらうのが1番いいのではないだろうか。

 体験してもらうなり映像や写真などをみる機会を与えるのもいいかもしれないけれど、「この忙しいのに!」という現場ばかりだとは思う。

 慣用句に“振り付け”するのもいいだろう。熱に浮かされた様子なんかをクラスみんなでやれば、かなり陽気な授業になる。

 …これだけ力説したにも関わらず、「普段使わないから誤用が多いんじゃないの?」「そこまでしてなんで覚えないといけないの」なんていわれると、ぞっとしないけれど。

2007年09月03日

第126回『アナタにふれたい』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 遠い遠いむかしのヒトビトは、今の我々のように“コトバ”というモノではなく、もっともっと極めて“カラダ“に近いところで通じ合っていたという。

 確かに「原始人の真似をして下さい」といわれたら、大概のヒトが「ウホウホ」とかなんとか訳のわからない音を発しながら、アノ肉を食べるフリをしてみせるに違いない(しかしどうしてアノ肉は“アノ肉”という言い方で流通しているのだろう)。とにもかくにも流暢にしゃべっている原始人は見たコトがない。

 いつの頃からかヒトはコトバのみを頼りにして、そこから得られる情報だけを鵜呑みにし、相手をさも理解したような気になってしまっているようだ。
 話を聞いてもわからないから、より一層コトバを求めて闇に迷い込む。ホントウの相手にふれるコトができるのは、いつになることだろう。

 新しい舞台の稽古がはじまると大抵“自己紹介”をさせられるが、往々にしてつまらない。なにせ知らないヒト相手だ。うわべだけでコトバを発して「大阪出身の中野です。31です。お肉が好きです。」みたいな情報しか提供できないので、聞くがわもあんまりテンションが上がらない。

 そこでもっと深く相手を知るために、「何回も何回も“自己紹介”する」というのはどうだろうか。
 何回もまわってくると、そのうち手持ちの“当たり障りのない情報“がなくなってくる。すると徐々に、例えばイマ気になっている話題や嵌っているモノのハナシに移行してくる。

 共通の話題ではないので、どんどん抽象的なハナシになってくる。さらに何周も自己紹介をする。どうでもよい、なんだかわけのわからないハナシになってゆく…。

 そうしているうちに“コトバ”があいまいで、この“なんだかわけのわからないハナシ”から、相手をなんとか理解しようと“カラダ”全てが相手に向かうようになってくる。こうなってくると、なんだか会話するのが面白くなってくる。 

 大概どこでも最初は“自己紹介“からだ。いつものやり方にひと工夫加えて、深いところで触れてみてはどうだろう。

 最後に。こういうコラムを今回書いたからといって、“コトバ”を粗末に扱ってよい、と言っているのではないコトだけは特記しておきたい。“コトバ”は単なる、コミュニケーションツールではないのだから。

2007年08月27日

第125回『カタから入る』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ボヤッとしているせいか、お店に入ると大概店員さんにつかまる。ピンク色のスカートなんかを手にとってジブンにあててみていると、「そのスカート気になっちゃいます?」なんて言いながら、笑顔の張り付いたような女性店員が近寄ってくる。

 「ピンク好きなんだぁ?」
 「ええ」
 「あーなんかわかりますー、雰囲気的に似合っちゃう感じするしー」

 …初対面なのに何故このヒトはタメグチなのだろう。“似合っちゃう感じ“とは何だろう。そもそも似合うなんて思っても無いのが丸わかりだし、とりあえずその意味のない笑顔は気色が悪いのでやめた方がいい…。

 そんなコトをアタマの中で考えながら、「ちょっと考えます」と言ってお店を出る。

 “お客様には笑顔で応対“と誰かに教えられてやっているのかもしれないが、ココロが伴っていないのでどうしてもそういうカオのお人形に見えて気色が悪いのだ。ココロの伴わない表情やコトバ、動きはヒトを不快にさせるだけである。

 芝居においても同じコトがいえる。例えばムカシ、何かを決心した演技をやる際に“下を向いた状態で、すばやくカオを斜め上にあげると決心したように見える”と要らぬコトを教えられて実行していた役者がいたが、“決心した”というココロの動きが伴っていないので、正直そういうクビの運動にしか見えない。

 ただし狂言などの、表現として昇華されているものは別である。

 デジタルなモノに慣れ過ぎているせいで想像力が欠如し、ココロがこもっているのかどうか自分すら気づけないのかもしれない。

 まあもっとも、ジャンルによってはカタばかり重視して、完全に人形にしか見えないようなショーをやっているヒトタチもいるけれど。それは畑が違うというか好みの問題なのかもしれない。

 お客に対して笑顔で対応するコトが重要なのではない。もちろん笑顔がいらないわけでもない。教えるとなるとどうしてもカタを教えるコトになってしまうのもわかる。しかしせめて、見掛け倒しのワンパターンな接客はやめて、お客さん1人ひとりとちゃんと向き合って会話のできるようなヒューマンスキルを磨く努力をして欲しいものである。

2007年08月20日

第124回『ミセタイノハアナタ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 お仕事で東京から愛知に芝居仲間が来たので、ささやかな観光のつもりで私が住んでいる地域のテーマパークへ案内した。花火を観るためである。
 夜空に咲く色とりどりの火薬の花は、スモークやレーザー光線そして森のシルエットなどと絶妙なバランスで、瞬間的に1枚の絵画のようにココロに届いては消えていく。

 花火を観て幸福なキモチになりながら、テーマパーク内の植物園のようなところへ入っていった。園内をひと通り歩いて、階段を登り、植物園を一望できるテラスへついた、筈が…。

 建物の構造上、天井を支えるために植物園のど真ん中、手前と奥に2本、かなり太い鉄柱がそびえたっており、全く一望できない。折角のテラスもチカラを発揮できず、無駄に張り出しているのみだ。 

 テラスを作って全体を見渡せるようにしたいのであればその様に設計すべき(植物園そのものの形も他の形でもよかったろうし、鉄柱も分解できる)で、こういったあたりに詰めの甘さというか、サービス精神のなさを感じる。使う側のコトが考えられていない。

 こういうことは至る所で見られるもので、芝居でも観てくれるお客さんのコトよりも、創り手の都合による見辛さやサービス精神の欠如が見られる場合がある。
 ジブンの「楽しい」を優先し、観る側の「楽しい」を二の次にするのはもってのほかだ。

 それを誰にどのように、どんな目的で使って欲しいのか、みせたいのか。プロならばそのキモチありきでモノは創るべきである。

 …そういえば、花火を見ているトキ、彼はワタシを観やすいところへ立たせて、自分は私の後ろに立ってくれていた。彼はステキな役者であり、ステキなヒトだ。

 そう、そういうコト、彼のようなそういうキモチが大切なんじゃないかと思うのである。
 夏も終わりに差し掛かり、ふとモノをおもう花火である。

2007年08月13日

第123回『魅力的なわけ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 そらがとても広くて陽射しがまぶしい。生暖かいような冷たいような風が吹いてきて、潮の香りがする…。そうか、ここは海が近いのか…。
 イベントの仕事場が海辺のリゾート地にあるので、初めて職場へ赴いたときに、そんな風におもった。

 現地までは電車とバスを乗り継ぐ。同じバスには水着や浮き輪などを持った一般のお客さんも乗っていて、皆、これから待ちに待った夏をおもいきり満喫するのだと言わんばかりに、瞳をキラキラさせて友達と談笑している。

 現地に着いたらついたで子供からオトナの女性までビキニ姿で大はしゃぎしているのが目に飛び込んでくる。皆とてもキラキラ輝いて見える。

 どうしてこう、海辺やら水辺というのは魅力的にみえるのだろう。水しぶきを上げて水面に突っ込んでいく絶叫マシーンを見ながらそんなコトを考えていたら、ふとあることに気づいた。

 状況としては、非日常である、というコト。芝居を観に行ったりコンサートに行ったり…そういういつもと違ったコトをやっているコトによる、興奮状態であるコト。

 また、大概ミズで遊ぶひというのはピーカンな天気のことが多い。そうすると、太陽の光を水が反射して、カオやカラダに当たる。丁度、舞台の上の役者に照明が当たっているような感じだ。だからカオが白く飛び、大変美しく見える。雪山でも同じことだろう。

 さらに、ニンゲンは興味のあるモノゴトを見たりやったりするときは、黒目が大きくなるそうだ。丁度、役者が舞台の上で水を得た魚のように芝居をやっているトキ、とても黒目がおおきくなる。黒い部分の面積が広いと、可愛く見える。

 こういった条件が重なり合って、みんな魅力的に見えるようになるに違いない。舞台役者が魅力的に見えるのも、少なからずこういう理由を含んでいる。

 海やゲレンデで出会ったヒトと、改めて町で会ってみたらたいしたことなかった、というのはよく聞くハナシだ。しかし逆にいえば、モテやすい状態でもあるわけだから、この夏、恋人の欲しいヒトは、ぜひとも水辺へ行ってみると良いだろう。

 それでもダメなら、試しに役者にでもなってみてはどうだろうか。

2007年08月06日

第122回『絶対に言わない』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 劇団M.O.P.の『エンジェル・アイズ』が絶賛稽古中だ。公演は8月25日(土)の京都公演が皮切りとなる。
 ということで、作・演出のマキノノゾミさんのおハナシをお伺いしてきた。インタビューの様子は、8月1日発行の演劇専門誌『Confetti』に掲載されている。

 『エンジェル・アイズ』は15年前に上演した西部劇の再演である。舞台で、西部劇だ。“西部劇っぽいもの”ではなくて“西部劇”を創るとなると、これはもうエライコトである。

 その見せ方についてアレコレ聴いていたトキに、とても印象に残ったフレーズがある。
 「エンターテイメントは要するに、ウソをウソだと絶対に言わないもの」

 例えば「ディズニーランド」にはホンモノの動物はいないし、何もかもがゼンブ作り物 ――ウソ―― であるのに、ランドを動かしている人たちは全てをホンモノとして扱う。その徹底ぶりがすごいから、お客さんも最初は照れくさい感じがしたとしても、度重なる非日常的なコトやモノに対して過剰に反応しているよりも、乗っかってしまった方が楽しめることに気づくのである。

 リアルだとか等身大だとかそういったもので表現するのではなく、徹底的にウソをつきとおし、想像力にうったえる。すると例えば、舞台上のただの床が荒野に見えてくる…。

 …ワタシの(コトバの)補足も入ってはいるが、概ねこんな風にとてもわかりやすく、チカラとココロを込めて話してくださった。

 ワタシ自身はコメディを創るにあたってある程度のリアリティは含ませておきたいタイプではあるが、「ウソをウソだと絶対に言わない」というそのコトその部分が、ワタシの考えている、「ポーカーフェイスでコメディを書く」というコトにとても似ているような気がしたのだ。

 笑いを取ろうとしておふざけでやっている(これはウソですよ、といってしまうことに等しい)コトが露骨に表れると、現実に引き戻されてしまう。かといって、あまりにリアルにやりすぎても笑いドコロがわからない。

 絶妙なバランスで創られた舞台は、抱腹絶倒間違いナシなのである。

 …そんなこんなでとりあえず、“馬”をどうするのかが気になるところだ。

2007年07月30日

第121回『ウソを突き通すというコト』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 イベントショーの仕事が入った。夏休みの間によくやっている、所謂子供向けのキャラクターショーだ。
 まだ1ヵ月以上イベントがあるのでささやかなヒントで申し訳ないが、“見た目はコドモ、頭脳はオトナ”な“名探偵”役をやっている。
 
 よくあるキグルミでも着るのかと思いきや、キャラクターの頭部以外は肌色のタイツのようなものを装着し、おなじみの衣装を着るだけで、ほとんどワタシの体型が丸わかりだ。身長はいいとしても、なんだか異様に腰の位置の高い“名探偵”となった。

 「明らかに誰かヒト入ってるやんか」と、幼少期のワタシはキャラクターショーに全く興味がないどころか、リカちゃん人形などの御飯事にすら興味がなかったので、こういう類のイベントへ親に連れて行って貰って喜んでいる同級生のキモチはよくわからなかった。

 そんなコトを思い出しながら子供たちの前に“名探偵”なワタシが現れる。園児たちは歓声を上げたり手を振ったりしてワタシを歓迎している。が、小学生以上になると、明らかにキョトンとした顔の子供がいる。

 そりゃそうだろう。期待していた自分のイメージとは異なり、明らかにヒトの肌じゃなさそうで衣装もフィットしていない、顔の表情も変わらなくて異様に腰の位置の高いヤツが出てきたのだ。子供だって絶句するだろう。

 「ごめんねごめんね…」と何故かココロの中でつぶやく。それでもワタシはウソを突き通さなければならない。“名探偵”お決まりの、ポケットに手をつっこむポーズやメガネに触れる仕草などを駆使して、なんとかキャラクターに徹するのである。

 しかしオモシロいもので、そうやっているうちに子供たちはこの“腰の位置の異様に高い名探偵”を、そういうモノだという風に受け入れだす。子供というのは根本的に、いろんなコトを素直に楽しむ能力に長けているのだ。

 「明らかに誰かヒト入ってるやんか」と思いつつ、「でも目の前にいるのは事実、“名探偵”だ」と考え方を転換するコトによって、その場の雰囲気を楽しんでいるのだ。
 これはとても、お芝居と似ている。というよりも、お芝居そのものの構図だ。

 ウソで固められた世界を私達はホンモノとして演じきる。創りこむ。ウソのつき方が徹底していれば、観客も「いっちょノってやろうじゃん」という気になる。その瞬間、ウソの世界は刹那的にホンモノの世界となる。

 受け入れる楽しさを知らなかった幼少期のワタシは損をしたかもしれない。

 ワタシのようなコドモを極力減らすためにも、日々キャラクターに徹する所存である。

2007年07月23日

第120回『さずかりモノ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 とある文学作品を短めのコメディに書き換えようと思案中である。カタイ話なので不謹慎にならない程度に、ポーカーフェイスでやらなければならない。

 狙いすぎてもつまらなくなるし、あくまで真面目でバカでおセンチなお芝居にしたいものだ、などと考えていると、いっこうに進まない。

 元のハナシはかなり前に読んだものなので、もう1度読み返す必要がある。が、資料は準備したものの、「読もうかな」と一瞬思ったところで「あ、ちょっと掃除でもしよう」となる。

 ひとしきり掃除したところで、「よし読もうかな」と思うと「…珈琲でも飲もう」となる。飲みながら読めばいいものを、他の雑誌を読んでしまったりする。
 飲み終えてしまい、「今度こそ読もう」というところで、今度はエアロバイクを漕ぎ始める。漕ぎながら読めばいいものを、やっぱり音楽を聴いてしまったりしていっこうに進まない。

 ワタシは受験生か。激しく自己嫌悪である。それでもまだ、「寝ている間に妖精さんが創ってくれているかもしれない」などと考える。可哀想な子きわまりない。涙がとめどなく溢れてくる。ハンケチが何枚あっても足りないくらいだ。

 …そういうコトで、書きあがるのには、というよりも書き始めるのにはもう少しかかりそうだ。ともあれ、以前にも書いたが(書いてないかもしれない)こういうものは“さずかりモノ“であって、天と地がひっくり返っても出来ないときはできない。

 そんなトキは美味しいものでも食べて、綺麗なベッドでグッスリ眠るに限る。そうすれば朝目覚めたトキに妖精さんが…

2007年07月16日

第119回『自信をなくしたら』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 完璧主義なヒトほど自信をなくしやすいらしい。なるほどジブンの周りを見渡してみても、そんな感じがする。年齢的にも想いの揺れる時期なのか悩み多きヒトが多い。
 ワタシはボオッとしているので、幸いこういうことに左右されずに済んでいる。

 芝居をやっていると否が応でも人目にさらされるので、外側から見たジブン(及び作品)というコトを、常にココロのどこかで考えている。
“人目にさらされる”というのは何も役者としてのジブンに限ったことではなく、脚本もそうだし、演出した作品そのものも誰かに観てもらうのが目的なのだから、タニンの目からはどうしたって離れられない。

 これは結構なストレスだ。役者として作家として演出家として、迎合してはいけないが理解されなければ存在しないのと同じコトである。ジブンの信じるモノを出して果たして受け入れられるのか、常に考え迷い選択しながら生きている。

 ワタシはアテガキをしている関係もあって、タニンの長所を見るのが大好きだ。自信のないヒトを見ると「いっぱいイイトコロがあるのにな〜」と非常に残念に思う。

 自信を回復するのに即効性のある方法があるので、よかったら試してみて欲しい。

 だいたい予想はつくであろうが、とにかく“ジブンの長所を探す“コトである。ウチの劇団の役者にも、「ジブンがかっこよく見える角度や言い方を考えて」などと指示を出すコトがある。タニンに自信を持って見せられる部分を探すのである。

 「あんまりにも長所が少ないから自信がないんじゃないか」

 尤もです。でもまあ、待ってもらいたい。少しガマンして読んでみて欲しい。

 探すトキに注意したいのが、“どんなにくだらないモノでも構わない”というコトだ。正確に言うと、どんなにくだらないと“自分が思う“長所でも構わないのである。

 他のモノスゴイレベルのヒトと比較してしまい、折角見つけた長所をくだらないと思っているのは自分だけなのである。本来、誰からも褒め称えられるような長所を持っている人間のほうが少ないのだ、というコトに目を向けるべきである。

 何でもいい。“運転が上手い”“声が大きい”“挨拶は欠かさない”“怒鳴らない”“迷子にはまずならない”“メールを打つのが早い”“ずっと続けている趣味がある”などなど……。

 普通に探してあまり出てこなければ、今度は「〜ない」というコトバを使ってみる。
“無責任ではない”“人嫌いではない”“無駄遣いしない”“遅刻はしない”など……。

 ネタに尽きたら、過去に自分が成功させたコトや良い行いを思い出す。勿論小さなコトでかまわない。“文化祭で実行委員をやった”“高齢者に席を譲った”など……。少しずつ、自分の輪郭が見えてくるはずである。

 それでもダメなら、友人に聞いてみるのがいい。10個は答えてくれる。

 自分の長所はココロのエネルギー源である。どんなに小さくてもそれを見逃さず、その長所を活かし成長させていくコトが、自信を保つ秘訣ではないだろうか。

2007年07月09日

第118回『東京タワー』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 6月アタマに仕事で、舞台演出家・劇作家のG2さんにお会いした。リリー・フランキーさん原作の『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を舞台化される、というコトで、インタビューしに行ったのだ。

 取材前にとにかく原作を読んでおかなくては、とすぐに本屋に走って求めた。本を紐解けば、G2さんが言っていたように、そこには飾らずウソのない、40年間に渡る親子の普遍性が描かれており、すぐに読み終えるコトが出来た。

 折しも初上京・初独り暮らし(いや居候だけれど)のワタシのココロに、なんというか、優しいある種の傷を残す作品となった。

 そういえばワタシにも、こんな、エピソードがある。

 ワタシが上京してすぐに父親が下宿先を訪ねてきた。土砂降りの中、基本的に出不精な父親がスラックスの裾を濡らしながら、駅から徒歩20分もかかるところを歩いてくるなんてめったにないコトだ。

 埃っぽい部屋、若干殺風景なキッチン、薄い壁、2階の住人の足音が響く天井…アパート中をくまなく観察した後に、「…寝るだけだな」とつぶやく。

 家で待つ母にも見せるのだといって携帯で何枚か写真を撮った後、しばらく何も言わなかったが、徐に、「栄養のあるものを食え」と言って、福沢諭吉をくれた。受け取ると、
 
 「使い切れ」

 とヒトコト言った。

 平素こどもらの食欲などについては全く無関心な父が、ワタシがちゃんと食べるかどうかをいたく心配しているコトも嬉しかったが、なによりも、ワタシが“こういうお金”を使えない性分だというコトを理解してくれていたコトにすこぶる感動した。

 雨の中、駅まで父を送ると、「飯を食うか」といってランチをご馳走してくれた。さて帰ろう、というときも、「家までついていこうか」という。そもそも帰る父をワタシが駅まで送ってきたというのに、これではキリがない。当然断り、改札まで父を送って帰った。

 親と子、というのは普遍的な関係の1つなのだな、と確信した瞬間だ。

 インタの時のハナシによると、G2さんの舞台にもその普遍性が色濃く表現されているそうなので、是非1度、ご覧いただきたい。

2007年07月02日

第117回『ドラマ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 芝居や演劇のコトを“ドラマ”という。
 ワタシの生業としている世界だ。

 劇的だったり強く印象に残ったりする出来事を“ドラマ”という。
 ワタシの暮らしている日常世界であり、意外と頻繁に起こり得るコトだ。

 去る6月25・26日に、新しく出逢った仲間との、生まれてはじめての東京公演が終わった。満員御礼、コミカルな舞台だった(ありがとうございました)。
 
 ほぼ毎日稽古があったので、おんなじ面子と物凄い頻度・密度(笑)で顔を合わせるコトになった。しかもほぼ毎日のように飲み屋で夕食を済ませていたので、仲良くならないわけがない。

 嗜好・思想が少しずつ明らかになり、それぞれのキャラが決まり、鉄板(お決まりの)ギャグが出来、いい歳なのにオール(徹夜)をして、まるで海賊か何かのように大騒ぎをした、そんな印象だ。

 そしてみんなでヒイヒイいって“ドラマ”をつくり(今回は難産だった)、本番が終わった。そう、物事には必ず終わりがある。当然のように、楽しい出来事の後には必ず胸が張り裂けそうな出来事がある。

 全体打ち上げのあと、有志だけでカラオケに行った。そこでワタシはボロボロに泣かされた。スピッツの『楓』などの所謂“別れ”や“仲間”のようなものがテーマの歌を何曲もみんなで熱唱されてしまっては、もう号泣するしかない。

 1ヵ月という短い時間しか共有していない間柄なのに、こんなにも別れが辛いのだ。嗚呼、これらの日々がどれだけワタシタチにとって濃密な時間であったことだろう。作られた“ドラマ”でない“ドラマ”が、こんなにも身近に転がっていたのだ。

 ワタシの暮らす日常の“ドラマ”も、まんざらでもないらしい。みんなの歌を聴きながらそんなコトを思いまた涙して、ただ打ち震えていた。悲しみの涙とは少し違う涙が流れた。

 …もっともこの打ち上げーーというかカラオケーーは、役者と演出家が集まって構成されているので、もしかしたら作られた“ドラマ”であるかもしれな……

2007年06月25日

第116回『あだ名』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 このコラムがアップされる頃には、池袋にて本番を迎えている。

 今回の公演は、お互いに全く知らない役者・演出家・作家が一堂に会し、コメディを創った。

 初めて出会う仲間同士、お互いに勝手も癖も分からず探り探りだったものが、最初の3日間くらいでスグに打ち解けることが出来たのが、今回のカンパニーのいいところの1つだ。

 いい仕事をしようと思えば、やはり早めに仲良くなるに限る。

 初めて集まる場合、私達は“ワークショップ”をやるコトが多い。私達の言う“ワークショップ”とは、即興で演技をしたり、ココロとカラダを開放するトレーニングなどをするコトであるが、今回のカンパニーがスピーディに仲良くなれたのは、“名前オニ”をやったからではないだろうか、と考えている。

 “名前オニ”というのは、基本的には鬼ごっこだが、オニにタッチされそうになったら誰か他のヒトの名前を呼ぶと、名前を呼ばれたヒトがオニにかわるという、少し変わったルールがある。

 名前を呼ばなければならない以上、まず覚える必要がある。覚えるには本名よりあだ名の方がいいので、大概あだ名をつける。

 あだ名で呼ぶ相手というのは通常、ある一定ライン以上親しい関係になったヒトたちであるが、“名前オニ”をすると親しくなる前に既にあだ名で呼び合うコトになる。

 これが不思議と、仲良くなるためには効果的なのだ。互いをあだ名で呼び合うコトによってお互いが親しいものと錯覚するため、遊び終わった頃にはそのままあだ名で呼び合い、和気藹々とした関係が構築されている。

 “名前オニ”からスタートした今回のカンパニーによるお芝居は、あたたかい作品に仕上がった。
 もし、新しく集まった集団における空気が硬いような気がしたら、是非あだ名で呼び合うことをお薦めする。出来れば“名前オニ”をするのが1番だけど。

2007年06月18日

第115回『ココロとカラダの関係』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 東京へ来て3週間が過ぎた。今月の25・26日に本番を控え(劇団上海自転車HP参照)ココロとカラダの調整に入っている。

 完全アウェイでいろいろと調整しづらく、こないだとうとう風邪を引いて熱を出してしまった。今回のカンパニーは結構いい雰囲気で長引かずに済んだものの(雰囲気が悪いと治るものも治らない)、喉の調子がよくならず、普段の5割くらいのレベルの声で稽古をしている。そこが非常に気に入らない。

 もちろん自分をいたわらず、東京だ!とはしゃいだ結果でもあるだろう。

 喉が如何にデリケートであるか、というコトは、それを商売道具にしているヒトにしかわからない上に、1人ひとり喉の癖みたいなものがあるので、たとえば役者同士でもタニンの喉のコトは正直よくわからない。

 一般的には、冷房がよくないだとか辛いモノや炭酸がよくないだとか言われるが、それは個人差がある。さらに、意味を理解できていないコトバを大きな声で言わされると声が枯れやすいのだそうだが、ワタシは特に、ココロが伴っていないセリフや必要性を感じないセリフを言わされると、すぐに喉がかれる。カラダがそのコトバを嫌がっているのがよくわかる。
 
 嫌なコトがあると胃がキリリと痛くなるように、適さないコトバはワタシの喉を傷つけるのだ。ほんとうにカラダというのはうまく出来ているなぁなんて、子供のように感心してしまう。

 話しはすこし逸れるが、一般的にもカラダが出しているシグナルに気づけなかった、或いは気づいていたのに対処しなかった(できなかった)結果、精神的に調子が悪くなるコトが結構あるそうだ。
 自分の喉のコトはタニンにはよくわからないのと同じで、自分のことはやはり自分でいたわるより仕方が無いものなのだろう。

 ともあれ、のどの調子をベストに整えて本番に臨みたいものである。

2007年06月11日

第114回『地方と東京』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 この半月で、稽古の合間を縫ってたくさんのヒトと話をした。今後も何件か予定がある。
 
 いろいろと話をする中で、“地方”について結構誤解しているヒトが多いコトに気付いた。中でも最も大きな誤解は、「“地方“の方が、芝居がやりやすい」と考えているコトで、最近訂正するのがめんどくさくなってきた。
そんなわけがない。米国人の子供が、いまだ日本人は袴とちょんまげで過ごしていると考えるくらい、大きな誤解だ。

確かに“やりやすさ”が、何における“やりやすさ”であるかにもよる。舞台装置を製作・保管しやすいだとか材木が比較的手に入りやすいだとか、そういう便利さは“地方”の方が有利かもしれない。しかし大体のヒトが金を出してちゃんと倉庫を借りている。
 
やはり文化は“東京“にある。芝居をやるヒトが多い分、目立たない、という問題はあるだろう。しかし、劇場や稽古場の利用料金はさほど”地方“と変わらないし、むしろいろんなキャパの劇場があって羨ましいくらいだ。

文化を消費してくれる人口も“東京”は半端じゃない。チャンスもそこらじゅうに転がっている。ちょっとしたエキストラっぽい仕事ならすぐにありつけるだろう。そしてちょっと自分を勘違いしてしまうヒトもいるかもしれない。

逆に“地方”は絶対的に文化的需要が少ないうえに、センスが立ち遅れている部分もある。“東京”ほど価値観も多様ではないから、あまり前衛的なものをやると理解してもらえない。だからといって消費者に迎合するのも創造する側としてはちょっと違うだろ、と思う。

劇団数が“地方”は少なく目立つとしても、観よう!と思う人間が少なければやっぱり集まらない。そして金にならない。

“地方”は仲間を募るのもひと苦労だ。芝居なんか観たこともない、というヒトがほとんどで、やる機会も観る機会も“東京”にくらべ格段に低いのである。芝居をやってるなんて、ちょっとした変わり者なのだ。

「“東京“から”地方“へ芝居をやりに行ったら、”東京“から来た!というコトで客が集まるのでは」と話しているヒトもチラホラいて、時代錯誤もいいところだなんて思った次第だ。そんなイナカッペはもう存在しない。せめてネームバリューがないと、”地方“でもお客は高いお金を払ってまで観には来てくれない。

“地方”も“東京”もやっているコトに左程かわりはない場合も多く、それぞれにやりやすさ・やりにくさというのはある。ただ、ほんの一握りの物凄いレベルの人々が、確かにいるのは“東京“だ。そういうヒトは下手をすると、”東京“ではなく”世界”にだってお出かけしているくらいだろう。

“地方”だからレベルが低い、“東京”だから高い、というのでもない。確かに六大学は“東京“にあるけれど、”東京“に暮らすヒト全員がインテリなわけではない。

ともあれ新しいものはたいがい“東京”にある。一度はこのやたらめったらヒトがひしめき合っている土地を見てみるのはお薦めだ。

2007年06月04日

第113回『笑いどころ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 寄席を聴きに行った。木戸銭2,000円程度で、4時間近く聴ける。

 ワタシが訪れたところは90席あるかないかの、ホントウに小さな演芸場で、さぞかしお客さんとの一体感が味わえることだろうと考えていたが、やはり芸というのはそんなに甘くはないようだ。

 狭いのだから有利なはずが、噺家によって笑いの大きさもマチマチ、笑いの多い噺家でも笑う客は決まっていて、正直クチが緩んでるんじゃないか、と思うくらい笑う。これはこれでおかしいが、笑わないヒト、酷いと寝ているヒトがいて、一丁前に(失礼)噺家がイヤミをいったりする。これもどうだろうか。
 
 お客もハナから寝に来たわけではないだろう。ジブンに興味を集中させ笑わせるコトのできなかった噺家が悪い。

 あの場が寒々しいのには、ちゃあんと理由がある。まず噺家の、話す方向が悪いのだ。寝ているヒトや仏頂面の客をみて話すのが辛いから、クチが緩んでゲラゲラやっているヒト達の方ばかりみてやっている。

 日常に置き換えて考えたトキ、自分のほうに話してくれていないと感じたら、興味が薄れていきはしないだろうか。はっきりいって、雑談を始めてしまわなかっただけ有難いと思ったほうがいい。

 まだある。ウケテいる噺家とそうでない噺家の間には、当然テクニックの差がある。しかし何よりマズイのは、ハナシの“笑いどころ”を本人が理解できていないコトだ。これが世に出ている噺家さんたちとの間の、決定的な違いではないだろうか。

 芝居の脚本においても、読解力のないヒトは演技が平べったくなってしまう。“笑いどころ”を把握するために、よくよくテキストを読み込むことだ。もしくは、ズバ抜けてテクニックがあるかのどちらかでないと、ヒトを笑わすのはムツカシイ。

ただし“テクニックがある“というコトは、どんな風にいったりやったりすると面白いのかをよく理解できている、というコトで、だからこそ例えば「もんじゃ焼き、そしてあんまき」なんていうまったく意味のないコトバでも、タニンを笑わせることができるのである。

どうせなら、聴きに来るお客さんみんなを笑わせるつもりでがんばってほしいものだ。

2007年05月28日

第112回『クチに出してみる』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 何かが始まるとき、というのは何かと物要りだ。

 先週、東京入りの荷造りをしていて、メディシンケースや封筒などちょっとしたモノが必要であるコトに気づき、それらを求めに百円均一屋(というと“百円均一”を販売しているように聞こえるが)へ行った。

 どうでもよいものからちょっと使うのに都合の良いモノまで沢山ある。綿棒の置いてある辺りを彷徨っていたら、ジャージを着た中学1年生くらいの少女が、2人でなにやら楽しそうに会話をしているのが聞こえてきた。
  
 「あ!バンソーコーいるかもーー!」
「そーだねー!大道具さんが怪我しちゃうかもねー!」

 おやおや?“大道具さん“??文化祭にしては早いし、体育祭だろうか。それとも演劇部だろうか…そんなコトを思いながらついついハナシに耳をそばだててしまった。

 「かなづちは?」「あ、ないない、1本で使いまわしてるよねー。」「でもいらないか。」

 なに?!ナグリ(金槌)を使いまわしだなんて!なんて効率悪いんだ!!買いなさい!!

 「鏡とか。」「あーうんうん、自分の使ってるもんねー。」

 そんなのは楽屋にないなら自分の使うんでいいのだよ!それよりナグリを買いなさい、ナグリを。

 「ガーゼはあ?」「あはは、なんに使うのー。」「大道具さんがさ。」

 使わないよっ!

 「とりあえず救急箱かおうよ」「うん。」「これカワイーねー♪」「ねえねえ消毒は?」

 君たちはどんだけ“大道具さんの怪我”の心配をしたら気が済むんだ。他に要るもの沢山あるだろうに。とりあえずナグリを買ってほしい。

 「ていうか、保健室行ったらゼンブあるんだけどね。」「だよね。」

 ……ハナシにオチがあるのは若さゆえだろうか。最後に、

 「いひひ、楽しいね♪」「そぉだね、ふひひ♪楽しい、ふふ。」

 と言いながら違う棚の方へ行ってしまった。勝手に老婆心を振り回されつつも、これからみんなで何かを始めるワクワクを、素直に「楽しいね」と言い合う彼女たちがまぶしく見えた。

 これからはじまる新しいコトへのワクワクをそっちのけに、ただ東京入りの準備に追われていたジブンに気づかされた思いがした。
 このコラムが掲載される頃には、新しい仲間たちと稽古に入っている。素直に「楽しいね」と言い合えるような関係が作れたら、まずは成功なのだろう。

 …とりあえず、大道具さんのためを思うのならば、ナグリをせめてもう1本は買っておいて欲しいと思う。

2007年05月21日

第111回『You are my home』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 少しの間、東京へ行くコトになった(劇団上海自転車HP参照)。

 劇団全体ではなく個人的に、というコトで、仲間がささやかに(というと失礼だし、かといってそう大げさでもない)壮行会を開いてくれた。

 とはいえ、飲んでしゃべっているだけなので、そういつもと変わりはない。が、それがいい。

 旗揚げした当初、ウチの劇団はどうあるべきかと考えたときに―以前もコラムに書かせて頂いたが―みんなにとっての“家”であればいい、と考えていた。

 休んでも抜けてもいつでも戻ってこられるような場所。家族だと近すぎるけれども、例えば、ハリネズミの針と針の間にいるような、微妙だけれども何故か安心するような場所であればオモシロい、と思っていた。

 だからこそ微妙にうまく変化しつつ、いつも、いつまでたっても変らない場所を作りたいと努力している。

そういう意味で、いつもと変らない飲み会というのが自然でいい。

 帰る場所があれば安心して戦える。そう思って続けていたものが、トツゼン家主のワタシがしばらく留守にするコトになるとは。人生はそういうところがオモシロい。

 いろいろ悩んだものの、結局、これもこれから先に進むための1つの変化であると考えるコトにした。
 ワタシの人生における、すべての特別な出会いを無駄にしないためにも変化していかなければならない。そして変らずにいなければならない。

 しばらく留守の“家”はみんなで守ってくれるだろう。否、“家“というのは、”仲間そのもの”であるのだろう。

 ワタシは少しだけステキに変化したジブンを持って帰ってきて、みんなに感謝し、またジブンたちの“家”をステキに飾り、変わりつつ変らない“家”を保ち続けるのがいいのだろうと思う。

2007年05月14日

第110回『ゼンブのなかのジブン』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 雨のにおいがする。

 外に出ると水っぽい風が吹いて、今となっては刈られるのを待つばかりの麦たちも、なんとなくもったりして軽やかさがない。

 森羅万象が規則的にツギの準備をしている。ワタシタチの知らないうちに、すこうしずつ変化している。そう思うと、いつもよりもやけに空が高く思えたり、世界がとてつもなくだだっぴろいように感じたりする。そんな中に、ワタシがきょとんとした顔でポツネンと立っている。

 とてもちいちゃくて、ひとりぽっちのような気がする。

 それでもワタシは確かにココにいて、なんとなくジブンが“どの部分なのか”を感覚的に捉えるコトができる。

 毎日の、“絶対やらなくちゃいけないコト”に追われていると、全くもってジブンしか見えなくなってしまう。そして誰かを傷つけたり振り回したりしてしまう。

 舞台に立っていても、観客や舞台装置や照明の色、音響スタッフが入れてくれる音などが見えなくなったり聞こえなくなったりすると、途端にジブンを見失う。

 要するに、ジブンを知るためにジブン以外のゼンブがなくてはならないのだ。

 お気に入りのワンピースやペンダント、香水やいつも使っているカップ。部屋、家。いつもの靴を履いて土を踏む。庭があって、ジブンのテリトリーから外へ。

 家族の中でのジブンは何であるか。劇団の中でのジブンは何であるか。友人の中での、子供たちの中での、会社の中での社会の中での、自然の中でのジブンは何か。

 それさえ忘れなければ驕り高ぶるコトもなく、なんとなく今の自分の立ち位置がわかるような気がする。

 雨のにおいがする。規則的に梅雨が訪れ、忘れずに紫陽花も咲くことだろう。

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