2007年05月07日

第109回『佐渡の魔像』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 つまくだ(第53回コラム参照)なハナシをする。

 ウチの劇団は男子が大方を占めており、尚且つワタシも女子とみなされていないので、ちょくちょくシモネタトークが爽やかに繰り広げられる。

 ある日「ジブンは“佐渡”なのか“魔像”なのか」というハナシになり、ウチのキャストは殆どが“魔像”で、スタッフは“佐渡”であるコトがわかった。なるほど喜劇をやる集団としては好ましい構成のように感じる。

 何かをやり遂げようとするニンゲンにおいて、“負けん気”というのは標準装備であり、これは“佐渡”とも“魔像”とも違う。どんなに大人しくても、みな“負けん気“がある。あなたの中の”佐渡“”魔像“を判断する際に、ちょっと注意が必要だ。

 喜劇役者は特に、笑いのおこるシチュエーションとして切羽詰った状態に置かれたり、痛い思いや寒い思いをしたり、また思いがけないコト(ずぶぬれになる、床が抜けるなど)が起きて驚かされたりするコトがしばしばある。

 これらの酷い事柄をうけて、少なくともオイシイとかタノシイと思う、もしくは客観的に考えてオモシロいと感じるコトが出来なければ、喜劇役者はきついのかもしれない。そう思うと、もっとも好ましいのは“超魔像”になるだろう。
  
 ただ、やはり舞台も社会の縮図。役割分担というモノがあり、笑いが発生する状況作りのための“喜劇的攻撃をする佐渡”というのが必要だ。ただしそういうのは、数人いれば事足りる。

 ちなみにワタシは、演出のときは“佐渡”であり役者のときはおそらく“魔像”でやっていると思う。が、どうだろう。

 ハナシはそれるが、トップアスリートは“魔像”が多いのだろうし、コーチは“佐渡”なんじゃないかと思っている。また、会社のなかでの“佐渡”および“魔像”の占める割合によって、もしかしたら業績に影響したりするのかもしれない。パートナーを組ませる際の指標にもなるかもしれない。
 
 身の回りの“佐渡”“魔像”分布状況を考えてみると、意外と関係性がクリアに見えてオモシロい。

2007年04月30日

第百八回『またね』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 このコラムが掲載される頃にはバイトを辞めている。芝居のたびに(そして体調もよく崩す)散々休んで迷惑をかけた。仕事が入るのはありがたいが、バイトはその分やりづらくなる。そして今回ばかりはちょっと、大型連休になってしまうのである。

 それはそうとして、辞める時というのは精神的に結構ツライものがある。勿論連絡先は知っているからメールも出来れば会うコトだってできるが、ワタシは別れが苦手な性分で、どうもこう、なんともいえない気分になる。

 劇団で濃密な時間を過ごした仲間が、出産・引越しなどでいなくなるのも結構辛い。普段「コノヤロー」と思ったりしていても、そういう節目のときはなんだかココロが“しんなり“としなびた感じになって、どうもいけない。理由は喜びごとがほとんどなのだからもっと”パリッ“とすればよいものを、やはりココロが”しなしな”してしまう。

 普段ワタシのコトなど気にもとめていないという態でいた職場のヒトたちが、こんな折にステキなコトバの贈り物をくれた。特に気に入ったのが2つある。

 が、おそらくそれは、そのヒトがジブンだけのものであるオリジナルの人生の中で発見した宝石であって、そうそうヒトに譲ってはいけないものなのだろうから、まだちょっと正確には言えない。そのヒトの歴史が詰まった宝石なのである。

 そのコトバたちのおかげで、“しんなりしなしな”していたココロが、“ほんわか”あたたかくなった。“パリッ”としなければならないといって張ってしまいそうになった肩肘の、そのチカラがスッと抜けた。

 丁度良くて急がないのがいいのだな、と。端的にいえばそんなハナシだが(だがこんな風に書くと随分薄っぺらくみえるが)、とてもユーモラスな表現で、気取らず気張らずプレゼントしてくれたその宝石を、私は大切にしたい。

 ありがとう。
 初心(=目標・始めた頃の不器用さ)を忘れず、これからも精進したい。

2007年04月23日

第百七回『デキるヒト』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 「あのヒトはデキるヒトだ」という言い方をする。こういうのは大概“仕事がデキる”という意味合いで使われる。

 ウチの劇団は常に団員を募集していて、思い出したかのようにポツポツと問い合わせがくる。PR文を読むと、これが“デキる”あれが“デキる”とそれなりのコトが書いてある。

 会って話してみると、なるほど知識はあるようだ。が、残念ながら人格に問題があることが多い。ワタシが問題がある、というのは、ホントウの思いやりと周りに対する興味に欠けている人間のコトを言う。果たしてこれを、“デキる”と表現してもいいものか。

 始めに書いたとおり、一般的に“仕事がデキる”ことを“デキる”というのだから、芝居に関しても同じだろうし、実際、才能と人格は残念ながら別物であるから、分けて考えるのがいいのかもしれない。

 が、仕事が(芝居が)デキて人格もいいヒトというのも間違いなくたくさん存在するのであるし、仕事しかできないヒトは往々にして個人プレーになりがちだ。芝居で言えば、演技が自己完結してしまう。

 演技の(仕事の)仕方でそのヒトがジブン自身に興味があるのか、周りと作品自体に興味と思いやりがあるのかがわかる。そしてジブンにしか興味のないヒトは、周りとのいい化学反応を起こすコトができない。だから結局、個人的に演技が上手くても、いい仕事をしているとは言いがたいのである。

 というコトは集団で何かをやる場合、“本当にデキるヒト“というのは、やはりスキルも人格も両方ともを備えているべきであるとワタシは考える。

 ムカシ父から「企業はヒトなり」というコトバを教えてもらった。劇団もまた、しかり。其れ相応の評価と表現をすべきであると感じる。

2007年04月16日

第百六回『さいごは』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ウチの劇団のDVD撮影をして下さっているカタは、もともと畳職人さんだ。
ワタシも少しだけ編集のお手伝いをさせてもらっているので、話す機会がよくある。

 一般的にはおじいさん、と言ってもいいくらいの年齢だが、パソコンやDVD・カメラなどについて、彼には全く歯が立たない。だからワタシは、彼のコトをこっそり“ハイテクじいちゃん”と呼んでいる。

 なにげなくハイテクさんの手を見るていると、サウスポーであるコトに気づいた。「ヒダリなんですね。」というと、
 
 「教えてもらったコト以外は全部ヒダリ、うん。」

 と言って笑った。

 “教えてもらったコト以外”というのがオモシロい。裏を返せば、“教わっていないコトは全部、ボクのオリジナルだよ”と言っているような気がしたのだ。

 芝居などのゲイジュツなんていわれるものをやってる人間の大半が、“自分らしさ”だとか“オリジナリティ”だとかいうちょっとカユイコトバに1度はひっかかる。そして大概が「ジブンという存在そのものがオリジナル」といって片付けてすごす。

 積み重ねによる後天的なオリジナリティを理解するのには大変骨を折るが、生得的なモノならば消去法で気づくコトが出来るモノも結構あるようだ。

 沢山モノを創っていると、たまにジブンだけの良さがわからなくなってしまうコトがある。生得的なものと後天的なものが混じってしまっているからだ。

 ヒトから教わったコトや、子供のころ憧れて真似てみたものなどを1つひとつケシゴムで消してみたとき、最後に残るのは一体なんだろうか。それは1つだろうか、それとも沢山あるのだろうか。
 
 考えるとキリがないが、例えばまだ若いのに自らに命を絶ってしまうようなヒトも増えているコトだし、そんなヒトタチが“ジブンだけの良さ”に気づけば、少しは自分のコトを大切に―そしてそれは周りのヒトタチを大切にすることにもなる―出来るヒトも増えるのではないだろうか。

2007年04月09日

第百五回『櫻も悔やむのか』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 行く先々で櫻が満開に咲いている。霧吹きで“ふっふ“と吹いたような優しいピンク色の花びらが、太陽の光を吸い込んで光り輝く、その花びらが、時折かぜに吹かれて惜しげもなくピンク色の珠を散らす。櫻は咲き方も潔いが、やはり散り方も潔い。

 こんなうららかな春なのに、ワタシは最近病がちでどうもいけない。先日はとうとう38度7分まで熱を上げてしまった。
 床に伏せ、ぼんやりとしたアタマでそれでもなお考えるコトを止められない。

 「もし朝(あした)、このまま儚くなってしまったら、後悔せずにいられるだろうか」

 なるべくそのように生きているつもりでも、まだ約束を果たさないうちはどうしても“悔い“が残るだろう。

 櫻はいい。“パッ“とひと花咲かせて、”パッと“散る。椿のようにハシから茶色くシワシワになって、見苦しくクビが落ちるようなコトも無い。それとも、櫻でもたまには「今年の咲き方はどうも気に食わない。ユーモアに欠けた。」だとか、そういった”悔い“はあるのだろうか。

 ひと花咲かせた覚えもないのに見えない何かに「散っていいよ」といわれても、ワタシは、ワタシはどうすればいいのだろう?

 そう思うとなんだかだんだん怖くなってきて、「沢山たくさんお芝居をやろう」と思うのである。

 でもそれは、決して“悔い”を残さないためであってはならないのだから、もうホントウに、堂々巡りなのである。

 TV番組で、「一休さんは死ぬトキに“死にたないねん”といった」のだというコトを紹介していた。やりたいコト伝えたいコトが沢山ありすぎてのヒトコトだ。

 これを思うと、ホントウに何かに尽力したヒトというのは、本人のキモチの上では未完のまま終わるのかもしれない、とも感ずる。なんにせよ、死ぬ間際に「死にたないねん」なんてお坊さんにはなかなか言えないコトであって、かえって勇気付けられる。

 櫻ももしかしたら「散りたないねん」などといっているのかもしれない。関西弁であるかどうかは、定かではないけれど。

2007年04月02日

第百四回『っぽい』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 東京から、こないだの公演の舞台写真が届いた。役者の息遣いや心情が手に取るように感じられる、躍動感のある写真で、どれを見てもそのシーンの台詞が思い浮かぶ。やはりプロの仕事なのだなとため息が漏れた。
 
 しかし写真を見るとなんだか、コノ舞台を創ったのが自分たちである、という実感が湧かない。カメラマンの腕が良すぎて実際よりも格好良く写っているコトもあるのかも知れないが、どうもジブンが舞台に立って役者をやったり、書いたり演出をしたのだという感覚がない。

 もうすでにジブンが先のコトを考えているからかもしれないし、今はオフだからかもしれない。舞台の稽古をしていない以上、ワタシは何のとりえもないタダのヒトであるからだ。

 そういえば先日とどいたお手紙の中に、「舞台に立った中野さんの変容ぶりに驚きました」というものがあって、珈琲を噴きそうになった。
 「お芝居やってるヒトっぽくないですよね」というのはよく言われるコトだし、「コラムからの印象と随分違って優しそうですよね。演出家っぽくないって言うか。」とも言われたりする。

 そもそも「っぽい」っていうのは何だろうか。一般的に言われる“先生っぽい“とか”銀行マンっぽい“とかそういうコトなのだろうけど、”お芝居やってるヒトっぽい“だとか”役者っぽい“っていうのはどうも、枠を設けにくいような気がするのはワタシだけだろうか。

 “お芝居やってるっぽい”というのはもしかしたら、「目立ちたがり屋」とか「お調子者」とか、そんなイメージがあるのかもしれない。しかし其れは大きな誤解だ。
 ワタシだけのコトをいえば(他のヒトのコトはわからないので)、普段は1人でいるほうが好きでそっとしておいて欲しいタイプだが、人前に立つコトもべつだん苦ではない。バランスがこれで取れているほうだとは思っている。

 役者に関しては、役を頂いて初めてその着ぐるみを着、役者となる様なもので、それ以外のときはなんでもないのだから、強いて言うなら“何をやっているヒトかわからないヒト”の空気が出ているのが正解なのじゃないかしら、と思う。

 もっとも、世間で言う“役者っぽさ”をかもし出せばお仕事がもっと増えるのであれば、少しは出してみないといけないのかもしれないけれど…。おそらくその方がうっとおしいし、かえって存在がリアルではなくなるのではないかなあと感じる。
 …先週より長いのでここまで。

2007年03月26日

第百三回『作品と其の生みの親と其れをみるヒトビトの思うトコロ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ながーいタイトルになったので、コメント欄がぎちぎちかもしれない。まあ、たまにはそういうのもいいのではないか、というコトにしておいて欲しい。ちなみに本文も長いので先に断っておく。
 
 大学時代に論文を4本かいた。文学部の国文学専攻だったので、卒論の練習がてら書いたものがあるからだ。

 文学作品を読んで、作家のバックボーンや時代背景やらも考慮しながら其の作品の真意を紐解くのがホントウの狙いであるが、其の作業においてあの時ワタシは酷く誤解していたコトがある。

 必死になってワタシが理解しようとしていたのは、“作者の思うトコロは何か”というコトである。が、ワタシのゼミの教授(漱石が専門の、冷静な脳みその先生だった)が、「其れはちがいます。」と言った。「作品中に書いてあるコトが、必ずしも作家の考えであるとは限らない」のだという。

 そんな馬鹿な話があるか。書いた本人がココロにもないコトを書いたというのか。

 1本目の論文を書いているときはそう思っていたのだが、研究しているうちに、ようようその意味がわかってくるようになった。
 しかし、決定的に自信をもって理解できたのはつい最近のコトだ。

 3月アタマに上演した『君の詩―キミノウタ―』という作品は、作家や其れを目指している若者たちのハナシだ。ワタシの演じた役がたまたま脚本家だったので、アトでいろんなヒトから「あれは中野さんのことなの?」などと聞かれ閉口した。いまだに聞かれてしまう。

 あれは100%のツクリバナシだ。ワタシの台詞の中に「もう、書いてても楽しくないの」というものがあったので、誤解を招いたらしい。ハッキリいってそんなコト、1度も思ったコトがない。コトバが溢れて仕方がありません、くらいの勢いだ。

 こうやって説明しても、誤解した状態でお芝居をみたヒトビトの思うトコロは、「でももしかしたら…」というもので、“作品のいうトコロは何か”というコトを考えてもらえない。

 エッセイなどと違い、小説や脚本は作家から独立したものである場合が多く、必ずしも作品と作家の思うトコロがイコールであるとは限らない。作家の狙い如何では、本人の考え方と真反対のものを作るコトだってありえるのだ。

 亡くなった作家たちは、今の読者たちがどんな解釈をしても弁明するコトができない。さぞかし向こう側の岸でヤキモキしていることであろう。

2007年03月19日

第百二回『カラダの記憶』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 15のときから芝居をやり始めて、今年はもう31歳だ。人生のいわば折り返し地点であるが、今もこうして細々とお芝居をやらせていただいているコトにとても感謝している。

 大阪にいる15年来の親友とは高校時代の演劇部で知り合った。このエッセイもちゃんと読んでくれている。距離的なコトと経済的な理由もあって、数年に1度しか直接会って話せないし、そんなにマメに電話やメールをするわけでもない。

 だのに久方ぶりにあうと、昨日も普通に会って話したかのように、スンナリと会話が出来るから不思議だ。恐らくこのエッセイを読んで下さっている大半のヒトに、そういう感覚には覚えがあるのではないだろうか。

 ワタシはこれを“カラダの記憶”のせいだと捉えている。

 放課後、70円のカップジュースを2人で1つだけ買って分け合って飲みながら、3時間も4時間もお芝居や恋愛・たまに思い出したようにテストのハナシなんかをした。

 その時の彼女の話し方も仕草もクセもお互いに、全部カラダが記憶しているのだ。2人の習慣がカラダに刻み込まれたといってもいい。

 余談だが、「運命のヒトに出会うとナツカシイ感じがする」といわれるのは、もしかしたらこの“カラダの記憶”と発想が似ているのかもしれない。前世(が、あるのかどうかは知らないが)スキだった相手と一緒に過ごしたために記憶されたクセなどが、そのヒトに出会うコトによってパズルが解けるようにふと思い出されるのかもしれない。

 さて、芝居のハナシをしないといけないので(笑)元に戻すが、最近、稽古をしていてふとコノ毎日の訓練というのは、共演者のヒトタチとの間に“カラダの記憶”を即席で作るコトなのではないかと思うようになった。

 “稽古を重ねる“というのは、“相手のコトをジブンに刻みこむ“というコトであって、その時点でお互いに、ジブンのカラダは自分1人のものではなくなっている。ジブンはアイテのもので、アイテはジブンのものでもあるのだ。
 だから共演者同士が錯覚して恋仲になったりしてしまうのかもしれない。

 そう思うと、“カラダの記憶”というのは“絆”でもあるわけだ。

 “絆“が深ければいいお芝居ができるし、いい仕事が出来る。そんな気がする。

2007年03月12日

第百一回『いろとりどりの』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ウチの近所の庭のサクラがもう咲いている。芳しい梅の花びらが気持ちよさそうに風に舞って、さも美しい様子であるのを眺めていたあの日が、つい先日のことの様に思える。

 舞台の公演があると沢山の花束を頂く。「中野さんをイメージして花束を作ってもらいました」というのは良く言われるコトで、何回言われてもほんとうに嬉しい。

 公演が2月であるコトがほとんどなので大体、春めいたパステルカラーの花束や花篭がおおい。ジブンもこんなに和やかで優しい春色の風情であればどんなにかいいだろうと思いながら、花の香りを味わう。

 舞台に立っているといろんな色に染まる、というより染まるのが仕事であるとも言える。私は普段からヒトを色に置き換えてみるのがクセで、役に入るときもその役のイメージカラーを考える。

 役としての色へ、照明の色・音響の色が加わると、ちょうど舞台が花篭のようになる。そう、舞台はいろとりどりの花篭である。そして色が香り、コトバが香る。そんな、魅力的な舞台であればいいと思う。

 ところで。色はヒトのキモチに大変影響するそうだ。例えばピンク。ピンク色を身につけていると、10歳ほど精神的に若返るのだそうだ。ヒトムカシ、とはたいしたもんだ。

 じゃあ10歳の子は0歳になるのか?という屁理屈を言われると困るし、林家ペー・パー子夫妻はといわれると……これ以上は申しますまい。

2007年03月05日

第百回『誰のための芝居か』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 今回で百回目というコトでなんとなく節目であると感じるのだが、実は明日がウチの劇団の本公演で、正直眠たい。いまリアルに夜中の3時ジャストだ。

 これが読まれるのは本番の次の日ということで、タイミングがいいのか悪いのか良くわからないが、どのみち気の利いたコトもかけず大変恐縮する次第である。

 ゲネを終え、今年のワタシが気づいたコトというのが、“脚本はやはり舞台にのせてみないと、その本当のオモシロさはわからない”というコトだ。前々から感じていたコトではあるが、今回の脚本はそれを顕著に感じた。稽古よりも今日のゲネの方が何倍も面白かった。

 そういう意味では“ナンタラ戯曲賞”というのはとても胡散臭い。読み物としての戯曲であれば判断しやすいが、上演されるコトを前提とした戯曲を他人が読んで、どの程度理解が出来るのだろうか。誰が読んでもオモシロく演出ができそうな作品が優れた作品である、と考えるのは、ナンセンスだ。

 恐らくそれは、“わけのわからないオモシロいもの“をキャッチするアンテナを持つのは「時代」であり「世間」であって、少数の専門家ではない、ということなのかもしれない。

 世の中が合理的かつ感覚的になってきている昨今、ますますこの傾向が強くなるに違いない。最近のTVドラマでも、掲示板などの意見を参考に脚本をかくところも少しずつ出始めているようだ。ただしワタシはこれに関してはあまり賛成していない。

 何のための、だれのためのお芝居か。最近それが固まりつつあるのも、こうして毎年1回のペースで公演をさせていただき、コラムを書かせていただいているお陰でもある。

 皆様これからも、何卒ご贔屓に。
 本番、楽しんでまいります。

2007年02月26日

第九十九回『父と暮らせば』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 井上ひさしさん作の『父と暮らせば』を観た。読み語りの形式をとった1人芝居で、舞台装置は簡単に組んだ平台と、ナマの(ゼラが入っていない)照明が2本、マンジュシャゲの造花1本という大変シンプルな舞台であった。

 父とその娘の会話からなる1時間半ほどの長さのお芝居である。新喜劇やドリフで育った私としては、華やかさに欠けるこのお芝居を最後まで観る自信がなかった。

 そう思いながらも、公演直前のこの忙しい折にわざわざ足を運んだのは、読み語りを勉強しないといけない事情があるからである。この「事情」はここでは関係ナイので捨て置くとして、そのほか感じたままを書く。

 「勉強だ」と思いながら構えて観ていたものの、徐々にその作品世界にズルズルと引きずり込まれる感覚がとても心地よかった。勿論役者のチカラもあるが、演技そのものが飛びぬけてスバラシイとか真新しいというわけでもない。

 では一体なんなのか。丁寧に記憶の糸をたぐってみると、どうやらその心地よさというのは、ジブンの想像力を駆使して遊ぶコトから端を発しているらしい。

 華美な照明や舞台装置のない状態におかれ、ストーリーを理解するヒントは役者の語るコトバと手振り・表情のみ。そしてそのコトバの、無駄なく正確な様。まるでジブンの感性を試されているかのようだった。

 井上ひさしさんというかたは、ホントウにコトバの魔術師なのだなと改めて感じた舞台である。コトバとコトバの隙間に、その情景や心情が「書かずに描かれて」いる。  
 脚本がよければ、概ねカヴァーできる。もっとも、それを生かすも殺すも役者次第という部分もある。が、よほどの大根でないかぎり失敗はない。

 観客の想像力にまかせるチカラのある脚本はいい。どんな作り物もヒトの想像力には敵わない。だからヘタな装置などが要らない。

 しかし最近は、タニンよりもジブンにしか興味のない人種も増えてきているので、「書かずに描かれた」脚本は、徐々にその姿を消していってしまうのかもしれない。
 よく出来た映像のゲームや映画もいいが、たまには少ない情報のみでジブンの想像力を試してみるのも面白いのではないだろうか。

2007年02月19日

第九十八回『クシャミは小さいほどステキ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 毎年この時期になると思い出すモノがある。“クシャミ”だ。

 中学生のときから患っている花粉症のコトでもなければ、インフルエンザでもない。ましてや、ウワサ話による“クシャミ”ですらない。

 ウチの劇団は基本的にコメディタッチだが、後半になると必ず所謂“ちょっといいシーン”というのが出てくる。セツナクなったりシンミリしたり、ナイチャッタリするようなシーンだ。

 そういう“ちょっといいシーン”のところでここ数年、必ずデッカイ“クシャミ”をする輩がいる。毎年だ。しかも「はあああああああくしょおおおおいいい!!!」という、明らかに声を出してわざとらしく“クシャミ”をするのだ。

 季節ガラ風邪引きもいるだろうし、花粉症の現代っ子も多い。しかし、毎年必ず決まったシーンで、というのは可笑しい。

 ワタシなどがいろんなところでこのハナシをするので、身の回りでは大変有名なハナシとなった。いまは本番が近いので「クシャミのヒト観に行っていい??」なんていわれる。すっかり名物だ。それはそれで面白いが、こういうコトに寛容であるのは文化振興にとってあまりいいコトではない。

 10年ほど前、鴻上尚史さんという演出家・劇作家さんの著書を拝読した折に、この“クシャミ”の件と“あらすじを先に話してしまう客”のエピソードが紹介されていた。ヤッカミなのか何なのか、何処にでもこういうのはいるようだ。

 基本的に、文化レベルの低い地域というのは観劇マナーがどうしても悪くなる。社会で決めたルールと違い、マナーというものはヒトのココロによって自主的に発生するものである。ココロに余裕がないと、文化的にも向上しない。

 例えば、雨の日に傘をさした状態で向こうから来るヒトとすれ違うとき、道が細ければ、傘がぶつからないようにどちらかのヒトがさりげなく傘を高く上げ、お互いを気遣うだろう。マナーというのはそういうココロだ。

 服装や容姿に気を使うのも大切なコトではあるが、まずはココロのお洒落から。“クシャミ”は小さいほどステキ。

 貴重な時間をさいて劇場に足を運んでくださったお客様に、少しでも気持ちのいい空間でお芝居を楽しんで欲しいとは思うが、そのためには、ワタシたち主催者側だけでなくお客さんたちの間でも、お互いに気持ちよく観劇できるような環境をつくる風土になって欲しいものだと思う。 

2007年02月12日

第九十七回『船頭は何人必要か』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 最近、近況報告ばかり書いているような気がするので少しばかりの修正を。
 
“船頭”のハナシをする。

 お芝居で言う“船頭”というのは無論“演出”にあたる。通常“演出”は1人であるが、例えばドラマの場合、1つの脚本に対して複数の“演出”がいる場合がある。

 とうぜん“演出”によって見せ方や撮り方が違い、こういった場合、いくら方向性をお互いに確認しあい定めたとしても、概ね作品にムラが出来てしまう。

 細かいコトを言い出すとキリがないが、それこそ照明の当て方や色、人物の抜き方や音声まですべてが違ってくる。1人ひとりの演出の力量の差もあるし、キャリアが長ければそして感性が研ぎ澄まされていれば、その分顕著にお互いの差が出てしまう。だからドラマを通してみたときに、一貫性が無くとてもキモチワルイのだ。

 もちろん利点もある。視聴者のご機嫌次第で人気のある“演出”にまかせてしまい、不人気ならばカットしてしまえばいい。

 例えば優れた演出家が2人で1つの舞台作品を創るコトになったとして、いくら感性の近しいものどうしでよくよく吟味して創っていたとしても、必ず、真剣に創っている以上イケンが分かれるトキが来る。どちらがワルイ、とかマチガッテイルということではないのに、抜き差しならない状況になってしまうのだ。しかしこれは至極当たり前のコトである。

 こんなトキどうするのか。

 おそらくよく話し合って“妥協点”を探し、稽古を進めていってしまうのであろう。ゴール(本番の日)が決まっている以上、2人でやるならばそうするより他はない。
 しかし“妥協点を探す”なんていうコトをプロがやってもいいのか、などと考えるのは理想が高すぎるであろうか。それともプロだから“妥協”しなければならないのだろうか。

 “妥協点”が探せなければ、どちらか片方が“演出”を降りるしかない。というコトは、ベストな状態というのは“あくまでも演出は1人でいい”というコトになる。

 然るに“演出”というのはそういうモノだ。そうそう何人もいては脚本の視点が分散してしまい、お客さんは何を観ていいのやらわからなくなってしまう。
 ちょっと演劇経験のあるヒトが、わかったようなフリをしてクチを挟むのも結構いい迷惑だ。“船頭”が多ければ山へでも宇宙へでも行ってしまう。

 そして困るのはそれについていくヒトビトだ。大概において、ついていかざるを得ない状況だから尚のコト気の毒だ。

 普段の生活でも、気の強いようなのが意見が割れお互いに引かないでいると、困惑するのは周りの人間だ。“船頭”は1人で充分なのである。

 “リーダーシップ“と対になるコトバとして”フォローシップ“というのがある。各々が自分の立場をわきまえ、その役割を全うするコトが良いモノを創る条件の1つといえるのではないだろうか。

2007年02月05日

第九十六回『伝えるというコト』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 先日、番組の収録があった。稽古場にカメラが入るのは初めてのコトなので、みんな最初から最後までウカレっぱなしであった。そして台詞をよく噛んだ。完全にウカレすぎだ(ウカレ具合は劇団HPのブログ参照)。

 狭い稽古場を音声さんやカメラさんが役者にくっついて動き回る。演出をつけるワタシの表情をつぶさにひろう。
 カメラというのはこんなにもソバで撮るものなのか(カオとカメラの距離としては30センチくらい)と驚きながら、なるべくレンズを覗き込まないように演技する。

 しかし1番驚いたのは、10分にも満たない尺の番組を制作するのに、5時間も収録に掛かるというコトだ。15分くらいの番組になるともう、1日仕事だそうである。

 大昔に1時間番組のバラエティに出たときは、収録に2時間ほど(待ち時間を入れたら4時間)かかっていたので「随分効率が悪いのだな」と思っていたら、あんなのはまだ序の口であったというコトだ。

 カメラの動きを見ていると、本当にいろんな角度からいろんなものを撮影する。「1つも逃すまい」というキモチと「これを視聴者に伝えたい」という熱い思いが伝わってきた。

 結局、劇団の本当の魅力を正確に伝えようとすると、それだけ沢山のソザイ(情報)が必要になるわけで、それを集めるにはそれなりの労力と時間が必要になるのは当たり前のコトなのかもしれない。

 それは例えば、日常ヒトがヒトを理解するにあたっての労力や時間の掛かり具合に似ていて、ワタシはそんな風にキモチをこめて取材をしてくれた彼らに対して、胸が熱くなる思いだ。

 誰かに何かをキチンと伝えるというコトは、こんなにもエネルギーが要るコトなのだ。

 ワタシは、エネルギーの出し惜しみをしてはいないだろうか。
 ふと、そんなコトを思った。

2007年01月29日

第九十五回『取材』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 3月の公演前に、TV番組でウチの劇団のコトなどが紹介されることになった。細々と活動していても、たまにはいいコトがあるもんだ。

 収録の前に、作・演出のワタシだけ事前取材があった。制作会社さんが番組の流れなどを考えるための情報提供というわけだ。

 ワタシは特別有名人でもないワリに、劇団を旗揚げする前から何度かインタビューを受ける機会があったが、おそらく今回の取材が1番会話が盛り上がったのではないだろうか。

 記者を生業にしていても、事前にHPなどをチェックしてこないヒトもいて、「そこから話すんかい!」と思うコトがたまにある。その辺で仕事の能力がちょっとわかる。
 
 そして大体、聴かれるコトというのは決まっていて、代表的なものといえば「好みのタイプ」「好きな食べ物」「ストレス発散法」などが挙げられる。こんなコトを聴いたところで相手の内面に肉迫するコトは出来ないのじゃないかと思うが、聞かれたコトしか答えようも無いのでそれなりに答えていた。

 しかし今回の取材は、もっとワタシや劇団自体の核の部分に触れるような質問を沢山してくれたので、その熱意に動かされて一所懸命おハナシさせていただいた。

 1番印象に残っているのは、「中野さんは自分を売り込むような自己主張は苦手だとおっしゃっていましたが、作・演出をするということも一種の自己主張ですよね。これは両者の方法が違うということですか?」という質問だ。

 今までこんなコトを考えたコトが無かったから、とても新鮮でよくアタマを使ったし、ジブンを一瞬の間に見つめなおすコトができた。さすがディレクターさんだ。
 話し方も丁寧で、話の合間に自分の考えなども織り交ぜつつワタシのハナシをきちんと受け止めてくれていた。

 タニンに自己開示してもらいたければ、まずはその対象に正しい興味を持つコトが大切だ。腹を割ってもらいたければ、自分から先に歩みより腹を割る。そうするコトによって、新しいヒトとの新しい関係が構築されてゆく。
 ただし相手が求めていないのにシツコク歩み寄ろうとすると、かえってこじれてしまうので見極めが肝心だ。

 とにもかくにも、番組が放送されるのが大変楽しみだ。

2007年01月22日

第九十四回『出鱈目』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ワタシが中学生のときに、ブルーハーツの『情熱の薔薇』という歌が流行った。

 歌詞の中に「見てきたことや聞いたこと 今まで覚えた全部 でたらめだったら面白い」というフレーズがあって、この部分を物凄く気に入った覚えがある。
 
 一種のパラドックスでもあり、当たり前が当たり前ではないかもしれないという不安や希望・ワクワク感などいろいろな味のするコトバで、何回も口ずさんでいた。口ずさむほどに、よく味が出た。

 しかし当時、受験生だった兄に「出鱈目やったらオモロイなあ(関西弁)」と何気なく言ったら「オモロないわ!!!」と本気でキレられてしまった。どうやら使うトコロを間違えたらしい。

 ドラマや舞台の場合、様々な理由(あえて言わないが)で脚本の大改造が行われるコトがある。先に台詞を覚えてあるコチラとしては、以前手渡された脚本は“出鱈目”というコトになり、新たに覚えなおすコトとなる。ちょっと厄介だ。

 もっとも、それで作品がよくなっていくのならば大歓迎ではある。が、厄介だ。

 今回のウチの脚本は最初にかなりコトバを削って書いたので、とても感覚的なモノとなった。とはいえコトバ足らずな部分もやはり出てきたので、稽古場で少しずつ改訂している。

 ワタシの創り方としては本当に珍しいコトだが、こういうのもいいもんだな、といまは思っている。

 アタマが固まってしまっていると大変だが、常にニュートラルで、“見聞きしたコトは全くの出鱈目かもしれない”というくらいのキモチでいると、なんだかいろんな冒険が出来るものだ。

 “出鱈目”かもしれないコトに執着するのをやめれば、いろんな打開策や遊びも生まれる。
 …それにしても、どうして“出鱈目”なんていう字をかくのだろうか。

 多分この字も、“出鱈目”なのに違いない。

2007年01月15日

第九十三回『声に出してみる』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 日ごろメールやお手紙を頂くコトが多いので、いろんな文章を目にする。ココロがこもっており正直に書かれていれば、あまり文章の上手い下手は気にしないほうだが、やはり間違いがあれば「ちょっとな〜」と思うし、表現やリズムが美しければ何度も読み返してしまう。

 1番気になるのは「突然のおメール失礼致します」などの、敬語や丁寧語の間違いだ。
かなりムカシからあれだけ“おビール“とは言わないなどといわれているのに、だったら”おメール“だってオカシイというコトくらいは気付いて欲しい。

 あとは1度も面識がなく、初めて貰ったメールに「いつもお世話になっております」と書いてあるコトもよくある。世話をした記憶は微塵もない。
 おそらく習慣になってしまっているかテンプレートを使い回ししているのであろう。こんな風だとちょっと、シゴトとして付き合うのに不安を覚える。

 逆に、例えば“還暦になった“という内容を「とうとう赤い服の袖に手をとおしました」といった風に、少し工夫のみられるかき方がしてあるとステキだなあと感じ入る。かといってあまりに技巧を凝らしすぎてもうるさいし、まるっきり例文の丸写しでも印象に残らない。そう思うとムツカシイ。

 台本を書くときに、ある程度かけたら必ず声に出していうようココロがけている。声に出してみて気持ちのいいコトバは、相手のココロにも届きやすい。すっと入ってくるような感じがする。

 文章を書くのが苦手なヒトは、とりあえず声に出してみるといい。最初のうちはピンとこなくても、そのうち「あれ?こんな言い方はしないなあ」と気付くコトが出来るようになってくる。

 めっきりメールでのやり取りが多くなった昨今、ただでさえ伝わりにくいキモチを誤解されやすい形で送信してしまうコトも少なくない。顔も見えず直筆でもない分、より一層ココロをこめてキーボードを叩きたいものだなと思う。

2007年01月08日

第九十二回『昼の風 夜の風』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 本番までアト2ヶ月をきった。芝居のスタッフ経験のないヒトはピンとこないかもしれないが、これはもう、かなり押し迫っている。私は準備のため連日サイテイでも丑三つ時までは起きている。

 私の住んでいるところは田舎なので、建物が少なく冬や春は特に強い風が吹く。

 昼間の風は“どどぅ“と吹きすさぶのだが、夜になると不思議と、”ザザッザザッ“といった具合にまるで細波のような音がする。窓から外を眺めると、それはどうやら風が木々を細かく揺らし、葉と葉が優しく触れ合っている音らしい。

 薄く伸ばしたワタのような雲が流れるさまを、夜空に掛かる月がさも煙たそうに照らす。その光は細波のように揺れる木々の、柔らかくもハッキリとしたシルエットを浮かび上がらせる。

 そのあまりにもハッキリとしたシルエットが、しんとした外の冷たい空気を思わせる。自然は眠らない。

 けれども静かなのだ。こんなときが1番ワタシを集中させてくれる。

 私はいま自然と一緒になって、息をひそめつつも眠らない。夜にしか聞こえない音を聞くために。

 
 …こんな風にいうと聞こえはいいのだが、ただ単にやるコトが多すぎて寝るのが遅いだけである。

 とはいえ昼と夜の音の違いを感じるというのはとても趣深く、芝居の演出にも活かされるので、ムダにはなっていない。と思いたい。単なる雑事で夜更かししていると思うと時間がモッタイナク思えるので、そういうことに、しておこう。

2007年01月01日

第九十一回『計画と結果のギャップ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 “BACK STAGE BLOG“をご覧の皆様あけましておめでとう御座います。
 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 新年ということで、なんとなく今年の計画や方向性をココロに思い浮かべる方も多いのではないだろうか。
 私も、年をまたいで舞台の稽古や準備に追われているとはいえ、なんとなく「今年はこれをやって遊んでみよう」というようなコトを考え、ニヤついたりしている。

 “遊ぶ“といっても勿論お芝居に関するコトも含めてなにか面白いコトを、ということである。
 
 1年も終盤になり(はじまったばかりなのに・笑)、今年は計画通りに進んだだろうかと考えた時に概ねその通りだと、ワタシは不満が残る。

 “計画通りに進んだ”というコトはイッケン順風満帆のような気がするが、ホントウは“絶対大丈夫と思われるコトしかやらなかった”というコトの表れでもある。

 要するに“遊び”が足りなかったわけで、そこが不満なのだ。

 ワタシとしては芝居をやっている以上“寄り道”が人生のメインのようなもので、細い路地があれば入ってみたいし、素敵な建物を見つければやはり入ってみたい。そこに知らないヒトがいれば最高だ。そうしてまた、新しい出会いがワタシに(そして相手にも)訪れる。

 昨年を振り返ったときに、特別なんにもない日々で、そこに物足りなさを感じるのであれば、是非“予定になかったコト”に挑戦してみて欲しい。

 挑戦したコトによって火傷をするかもしれないし、桃源郷を見つけるかもしれない。しかしその経験は、少なからずあなたの人生を豊かなものにするのではないだろうか。

 今日は元日。今年は是非ユル〜イ計画を立て、“予定になかったコト“でもどんどんつまみ食いをしてみてはいかがだろうか。

 本年が皆様にとってより一層素敵な1年になりますように。
 今年も何卒、ご贔屓に。

2006年12月25日

第九十回『クリスマスの夜に』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 高校生のとき、クリスチャンでもないのに教会の前夜祭へこっそり潜り込んだコトがある。パイプオルガンの厳かな演奏の中、ホンモノのクリスチャン達がろうそくを持って大行列を作り神父さんからパンを貰っているのを見て、何かに対する畏怖の念を抱いたコトを覚えている。

 “教会”というところは一種独特の雰囲気のあるところで、ムカシからなんとなく“劇場“に似たような感触があるなと思っていた。だからだろうか、”教会“を見かけると、ひょいっと中を覗いてみたくなる。

 15年前、クリスマスの夜に、高校の演劇部の卒業生たちが集まって芝居をやる、というので観に行ったコトがある。場所は、なんと“教会“だった。

 演目は、演劇集団キャラメルボックスの『サンタクロースが歌ってくれた』というもので、ワタシはこれを“劇場“で、本家本元が演じているのを観に行ったコトがある。勿論面白かったが、実は”教会“で観た先輩たちの芝居のほうがワタシは好きだと思った。

 「先輩の芝居だから」という贔屓目で観るほどワタシは甘くはない。“教会”だから照明効果は“劇場“にくらべて格段に劣るし、アクティングエリアも狭い。装置らしき装置すら何も置けない中で、充分魅力的な芝居をつくるコトが出来たのは、彼らが”クリスマスの夜の教会“というシチュエーションを味方につけたからに他ならない。

 あの空気を作り出すコトが出来るのは、まさに“あの日の夜”の“教会”しかない。当然これは確信犯で、先輩も「これで雪さえ降れば完璧やった。」と公演直後に話してくれた。これだって立派な演出の1つである。

 芝居だからといって必ずしも“劇場“でやる必要がない、というコトをこの時に教わった。あの日のお芝居は、短いクリスマスの夜に起きた、小さな奇跡だ。

 今宵みなさんにも、小さくてもちょっと素敵な奇跡がおきますように。
 ではでは、Joyeux Noel !!

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