2006年12月18日

第八十九回『記憶』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 今回のお芝居における各役者の台詞の割合はかなり多い。何せ1時間半の芝居を(下手すると延びる恐れがある)、主に3人の会話でつむいでいくのだから無理もない。

 こうなるとしばらくは、演技云々の前に“覚えたか覚えていないか”のモンダイになってくるので、本格的に演出ができない。
 私の場合は自分のコトをやる前にまず劇団そのもののコトをやらねばならず、ますます時間の確保がムツカシイ。が、台詞覚えはかなりいい方だ。覚えていないと気持ちが悪い、というコトもあるけれど。
 
 少しそれるが、ヒトは“意味のない羅列“を覚えるのが1番苦手だというコトは、これまでの経験でみんなわかっているコトだろう。だから意味を理解せず”丸覚え“をするのが1番時間が掛かるし、すぐに忘れる。”一夜漬け”もコノ丸覚えに含まれると思う。

 さらに、例えば仕事でAさんが意味を理解せず“丸覚え”した知識をBさんに教えようとすると、Bさんはとても覚えづらい。何故なら意味を説明してもらえないからだ。

 それに自覚のないヒトは「やってるとことりあえず横で見てて」と言ったりする。それがOKなのは職人技くらいだ。大概のコトには意味や根拠がある。逆に言えば、意味や根拠がないものは、ムダな、あるいは能率の悪い作業であるという可能性が高い。

 だから、ある程度の法則性や根拠を話したり、故意的に意味づけをして説明すれば覚えてもらいやすいのである。学生のころ「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」などといって意味づけをして暗記したヒトも多いだろう。それと同じコトである。

 台詞についても、ストーリーの理解度やコトバの理解度・人物の行動に対する理解度などによって台詞の脳ミソへの定着率が変わってくるので、覚えるのが苦手なヒトは、よくよく台本を読み意味を考えるコトが肝要だ。

 というコトで、早く覚えるとしよう。頑張ります。

2006年12月11日

第八十八回『空気の演出』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ウチの劇団の今年の台本はいたってシンプルだ。

 年々お芝居が長くなるので、「もしかしたらセリフやシーンに無駄があるのでは」と思い極力削いでみたのだ。どうしても足りなければ付け足す、そんな構えだ。

 場面転換もなければドタバタするコトもあまりない。コメディだがつまりは日常なのだ。これは音を入れるタイミングや照明のプランを立てていてもそう感じる。

 日常、例えば不穏な空気が流れていたとしても、そのバックで不穏な曲が流れるようなコトはない。孤独を感じるからといって、自分ひとりに照明が当たるコトも無い。だけれども間違いなくその場は“不穏”だし、“孤独”なのだ。

 じゃあ何がそう感じさせるのか?というコトになるが、それは役者がやるべきコトすべて−キモチ・表情・セリフ・動き・距離感……−がその要素である。

 実際、今回のお稽古はいつにも増して内面重視であり、コトバひとつひとつのニュアンスを考えるコトにみんな時間を費やしている。だから芝居上“嫌な空気”のシーンがあると稽古中みんなで“嫌な空気”を発生させるので、ほんとうに居たたまれない気がしてくる。

 「病は気から」とは少し違うかもしれないけれど、キモチの持ち方次第で意外と人生ハッピーなんじゃないかと思えるくらい空気に影響する。

 …とか何とか言いながら、結局「ここにも音入れてみよー」と思ったりする小心者のワタシ。舞台に乗せてみて要らなければやめればいいだけのハナシだ、うんうん。

 余談だが、例えば自分の悩みなどをヒトに話すとき共感して欲しい場合は、悲しい曲をバックで流しながら話すとかなりの確立で親身になって聞いてくれるそうだ。これは他にも、告白する時だとかワイワイやりたいときなども、それに相応しい曲をかければ効果がある。
 
 空気を演出するコトによる効果は凄まじい。

2006年12月04日

第八十七回『時間から質へ』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ウチの劇団の3年前の公演DVDが手元に届いた。とてつもなく昔のような気がする。

 折角なので全部観てみた。みんな若いし細いし、まだ声にも重みがない。しかしその時のおかしみや魅力が充分に薫っており、いい公演だったな、などと自画自賛したりした。

3年前のその公演で、ウチの劇団員のAくんとTくんはコントをやるシーンがあった。あれだけ練習したのにあの頃はスピードをあげるのが精一杯で、とてもとても、芸人さんのように細かなテクニックを挟む余地はない状態だった。

いまは来年の3月の公演に向けて稽古中だが、彼らはまたコントをやる羽目となっている。無論ワタシがワザと書いた。ごめん。

「今回も大変だ」と思っていたが、蓋を開ければなんのなんの、スピードはもちろん小技も織り交ぜなかなかの名コンビ・名コントになっていた。3年の月日というのはものすごい。

宮本武蔵も“千日の稽古を鍛(たん)とし…”と言っている様に、3年間、古を稽えた(かんがえた)時間、すなわち稽古の量が質へと変化したに違いないのである。

華やかさの裏に地道な努力があるコトに気付かず芝居の門を叩き、質的な変化を知ることなく去っていくヒトは多い。

ヒドイと質的な変化がおこるほど時間も量もこなしていないのに、出来た気になってしまうものもいた。こうなるとこれ以上伸びないのでお気の毒だ。

なんでも習得するのに3年は掛かると言われるが、これはホントウのようだ。

AくんにしてもTくんにしても、自分たちが質的に変化したコトには多分気付いていないだろうから(そこがまたいいところでもある)、是非ナイショにしておこうと思う。

2006年11月27日

第八十六回『離見の見―りけんのけん―』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 竹を割ったような性格で短気だったワタシも、大人になってからは大声を上げて怒るというコトが滅多になくなった。

 その理由は、怒っているジブンをもう1人のジブンがちょっと離れたところで見ていて、「やれ見苦し」と思うからである。そこに気付くと言い方が変わってくる。こういう癖がついたのは、芝居をやり始めてからのコトだ。

 これを能楽者の世阿弥は“離見の見“と表現した。要するに観客からみえる自分をココロの目で見て、観客の反応に合わせて打つ手を変えていけという教えである。

 世阿弥は舞台中の自分の演技に限らず、コトバ・所作・ストーリーなども当時の観客であった貴族たちの好みに合わせて変化させていったようだ。

 これをポリシーがないととるか、サービス精神、根っからのエンターテナーだと取るかはヒトそれぞれだが、少なくともその柔軟さと冷静さ、芸の幅の広さには恐れ入る。

 1歩離れたところでタニンを見るのが好きなワタシでも、芝居中つねにジブンを離れたところから見るというのはムツカシイ。怒るときには出来るのに、不思議なものだ。
 うちはコメディをやっているので、この“離見の見”という考え方は重要なのだが、どうしても役に入り込んでしまいがちになる。正直、入り込んで“ふわっ”となるのが好きなのだ。
 
 世阿弥は“ふわっ”となるコトよりも、観客を沸かせるコトに徹していたのに違いない。

 ワタシはまだまだなのだな、と思いつつも「何とかして両方とも(“ふわっ”となるコトと、ジブンを離れたところから見るというコト)同時に味わえないものか」と、欲張りなことを考えて過ごしている。 

2006年11月20日

第八十五回『格付け』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 昔、フランチャイズの喫茶店でウエイトレスをしていたコトがある。意外とお客さんたちの会話が聞こえてくるので面白かった。

 ある日、オバサン2人組が「だからコノ店は1流になれないのよ。」と話しているのが聞こえてきた。内心「360円の珈琲注文しといてナニ言ってんだ。」と思ったのを覚えている。

 そもそも“1流”というのがイマイチよくわからない。例えばTVで見かける“1流”レストランというと、ひげ面のスカしたシェフがいて、器や調度品なんかにお金が掛かっていて料理の素材もなんだか手に入りにくそうなモノを使っている、そんなイメージはある。

 “2流”“3流”となっていくと、いろんなモノに掛かっているお金が下がっていくのかもしれない。しかし数年前TVで放送されていた、芸能人の格付けをチェックする番組でも顕著だったが、値段と見た目を隠されると何流レストランの料理なのか判断できないヒトがほとんどだったのである。本当にレッテルというのは恐ろしいものである。

 レッテルの話をしだすと1冊くらい本が書けそうだ。あまりコトバ足らずに書くと誤解を招きそうだが、以下ちょっとした投げかけにでもなればと思って書く。

 余談だし、しかも若干話がそれるが、ワタシは基本的に何を食べても美味しいし、それが誰かのご馳走だったらより一層美味しい。更に、目の前で美味しそうに食事をしながら楽しい話をしてくれるヒトがいたら最高に美味しい。

 “1流”“2流”“3流”というコトバをそのまま使うが、これらもそれぞれに楽しめるに違いなく、例えばこれを芝居に置き換えると、“2流”は“2流”の見所が“3流”は“3流”のつらさや野心なんかがあるのであって、これらを観る人々のココロのひだにどれが引っかかるのかはわからない。

 だから例えば、その世界で有名なヒトが「素晴らしい!」というモノと、全くの素人が「素晴らしい!」と思うモノには明らかに差がある可能性だってあるわけだ。けれども有名なヒトは自分のコトを“1流”だと思っているのに違いないのである。

 価値観が多様化している昨今、もはやこういった曖昧な格付けは必要ないのかもしれない。というよりも、なんでも「ひょっとしたらアリかもしれない」と考える感覚が“今”ではないだろうか。
 
 勿論“論外”という枠はいつの時代も存在するので、ここにだけは当てはまりたくないものだなと思う。

2006年11月13日

第八十四回『天賦の力』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 とうとう双葉小6年生のみんなとの楽しいお芝居作りが終わってしまった。

 私は当日、感動して泣いてしまうのではないかとヒヤヒヤしたり、変なトラブルが起きませんようにだとかみんなが怪我なんかしませんようになどと、妙に緊張したりして落ちつかなかった。
自分が出演している舞台のほうが、よっぽど気楽だ。

 彼らのために、彼らによって作られたコノお芝居は、「天賦の力を伸ばそう」というコトバがテーマとなっている。双葉小学校の出身者である加藤与五郎博士が、昭和34年に双葉小を訪れた際に児童たちに贈ったコトバである。

 コノお芝居をやることによってみんなは「神様が自分たちそれぞれに与えてくれたチカラを信じて、諦めずに努力をすれば必ず道は拓かれる」、というコトを始め、伝えるというコトや演じるというコト、他にもみんなでアイデアを出しあう過程などで喧嘩したり挫けたり協力したりして数えきれないほど多くのコトを学んだと思う。

 ひたむきに努力をするみんなを見て、私も改めて、あきらめずに努力するキモチを取り戻せた(私だって挫けるコトもあるさ・笑)。みんなにとても感謝している。ありがとう。そしてもう1つ、“芝居が子供たちにできるコト“というのが前よりも更に具体的に見えてきたように思う。

 子供たちにとっても芝居はなにも、観るだけのものじゃない。
 そして子供たちに“小手先の演技”というものはない。生身でぶつかるしかない彼らが芝居から学ぶコトは確実に多い。

 みんなによる大人顔負けの演技と、それを見守る先生や保護者のみなさん、そしてケーブルTVの収録カメラたちが所狭しと体育館を埋め尽くし、お芝居は大成功・大好評のもとに幕を閉じた。

 これから先、みんなの身につらいコトやあきらめたくなるようなコトが起きたときは、今回のお芝居をやり遂げたコトや「天賦の力を伸ばそう」というコトバを是非思い出して欲しいと、ココロより素直に思う。

2006年11月06日

第八十三回『素朴―そぼく―』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 今週、いよいよ小学校のお芝居の本番である。

 お芝居の中に“独唱”の部分があって、咽喉に覚えのある児童がソロで美声を披露している。伴奏はピアノのみ。大変“素朴”な歌声で、

 ♪君が今あきらめたなら、だれがやるというのだ…

 と、挫けそうになっている人々を励ます。子供の“素朴”な歌声が、こんなにココロの琴線に響くのである、というコトに、この歳になるまで私は気付けなかった。

 “素朴“というのも、なかなかいいものだ。

 ふと思い出した。私の高校時代の演劇部には、当時顧問が3人いた。因みにもう少し上の代になると、5人いた。「演劇部のヤツらは何をしでかすかわからない」という認識の下、厳重監視されていた、らしい。もっとも、ワタシたちの代は品行方正であった、筈であるが。

 ある日、顧問のうちの1人が私たちを集め「顧問を辞退したい」と言い出した。彼は続けて、「お前らの芝居は僕らの時と違って、照明はビカビカ音響はドンドンはいって派手すぎる。僕らは、地明りにせいぜいサス1本だったのに…」と話していた。

 あの時は、“時代の流れ”として舞台の効果に対する考え方の違いを捉えていた。

 数年後、ワタシは劇団を旗揚げするコトになり、故しかた先生に脚本を見てもらった際に、「菜保子さんの脚本は、贅沢に書いてある」といわれた。この“贅沢”の意味が当時はイマイチよくわからずにいたのだが、ここ数年でうっすらわかりかけてきていた。 

 そして今回あの“素朴”な歌声を聴いて、「なるほどこのコトか!」と感激したのである。これは次回の劇団の公演に是非とも活かしたいとおもう。

 アタマでは、「ホントウにいいものは飾りたくったりしなくても輝いている」し「美は内面に在するもの」であるというコトはわかっていたが、理屈抜きで、気持ちいいくらいストレイトに私のココロを震わせてくれたのは初めてだ。

 何もなくていいのだ。ただそこに在る、というコトが“素朴”なのだ。研ぎ澄まされた感性と、伝えたいという純粋なココロ。そこには目立とうとか、そんなことは一切考えない、あるがままの世界が存在している。

 なるほど“素朴”とは、なかなかいいものだ。

2006年10月30日

第八十二回『正解―せいかい―』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 小学校の体育館から「あえいうえおあお」が聞こえてくる。秋の空に子供たちの元気な声が響き渡っている。

 まだまだ“得体の知れないモノ”と思われることの多い芝居の、そのお稽古が教育の場で行われている。ホントウに素晴らしいコトだ。

 私はジャージを着て、ドギマギしながら「もうちょっとこんな感じで」なんて、子供たちや先生にボソボソ言いながらお稽古を進めさせてもらっている。

 あくまで教育の一環だから、先生たちはとにかく子供たちのアイデアを活かすコトに意識を置いている。先生たちの労力は、もう物凄いものだ。

 ともすれば“正解”を言ってしまいそうになるのだけど、そこは我慢の子で進めなければならない。しかし我慢しているうちに「そもそも“正解”なんてあるのだろうか」という疑問が頭をもたげてきた。

 私が書いた脚本で私が演出であれば、いわば私が“正解”にあたる筈であるが、今回小学校で稽古中の脚本は、私も潤色したがもとはタニン(故しかたしん)の作品である。

 そして今回の場合は、子供たちが芝居を通して何かしらの成長をするというのが最大の目的なので、“正解“は子供たちのココロの中にある。そう思うと、どこまで言ってもいいのかその範囲が非常にムツカシクなる。

 “正解”を言わない、というのは本当にムツカシイ。

 子供たちがどうしたいかを酌むのが大事だが、かといって聞きすぎると収拾がつかない。アイデアが出ないものを待ちすぎてもタイムリミットになる。第一、ヒトにみせるものとして成り立たなくなってしまう。

 コムツカシク考えていても仕方のないコトではあるが。

 成長と作品の完成度の両立は、ムツカシイものなのだろうか。しかしそこを何とかするのがジブンの仕事であるから、ムツカシクても、やるしかない。
 
 なんだかさっきから“ムツカシイ”ばかりいっているような気がする。

 ひょっとしたら、ムツカシク考えすぎなのかもしれない。

2006年10月23日

第八十一回『被暗示性』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 暗示にかかりやすいヒトとかかりにくいヒトがいる、というハナシを本で読んだことがある。それぞれ一長一短あるが、考えるてみると世の中は、この“被暗示性”で成り立っているような気がする。もっというと、“被暗示性”の高いヒトが多いのではないかと感じられる。

 暗示にかかりやすいというコトは、誰かが「美味しい」といえばそんなような気がするし、「あの作品は素晴らしい!奥が深い!」と言えば、そんな気がしてくるというわけだ。だからCMというのは効果的なのだ。

 例えば“モノが流行る”というのはこの“被暗示性”の最たるものだろう。

 暗示にかかりやすいヒトは、“催眠商法“なんかにもかかりやすいから注意しなければならないが、逆に言えば”いい暗示“にもかかりやすいという最大のメリットがある。

 他人はなかなか“いい暗示”は掛けてこない(褒めたり受け入れたり慰めたりはしない)ので、そういうコトに囚われないようにしつつ、自分で自分に“いい暗示”をかけるのが1番いい。

 また“被暗示性”が高いというコトは、マンガや映画・芝居などをみて登場人物に感情移入しやすいわけだから、低いヒトよりは楽しめるという利点もある。

 役者をするにも“被暗示性”が高いほうが比較的やりやすいのかもしれない。ただし演技となると、いろんな要素が必要になってくるので、ただ単に入り込みやすいだけでは仕事にはならないけれど。
 
 普段ワタシは暗示にかかりにくい性格をしていて、ヒトのウワサは話半分に受け止めているし、他人が「美味しくない」といっても自分は「美味しい」と思える。

 しかし一方で小説を読んでは号泣し、お笑いを見ては爆笑し自分もやってみたいとまで思う。ワタシのなかの“被暗示性”は一体どうなっているのだろうか。

 まあ、都合よく“被暗示性”が出し入れできるのであれば、2度美味しいみたいでいいのかもしれない。こういうコトは、気にしないに限る。

2006年10月16日

第八十回『病床にて』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ハヤリはハヤリでも、乗りたくないハヤリというのがある。そう、風邪だ。こんな時には外で風が吹くのも騒ぐようで気に障るといった態で、ドアも窓もしっかり閉めて缶詰になっていた。

 ヒトに「風邪には気をつけて」といっておきながら、自分がかかっていては面目ない。今年はどうも咽喉にくるようで、随分サビの利いた声になった。

 中学生のころ、たまたま音楽の授業で歌のテストの日に風邪を引いた。ちょうど今みたくサビの利いた声で「咽喉が嗄れて歌えません」と、なんとか先生に伝えたら、

 「風邪のときでも歌う方法があるねんけどな。」

 と、ニコニコしながら言う。「でもまあ今回はええわ。」といって、またニコニコしていた。内心「教えてくれ!」と思ったが、風邪でそんな元気もなくそのまま過ぎてしまった。

 「なるほどこういうコトか」と思ったのは、芝居を始めてまもなくのコトだ。今では、声の出しすぎで嗄らしたのでなければ、ベストではないにしろ支障ない程度の声は出る。

 “原因と解決法を知る”というコトは本当にすばらしいコトだ。知らなければ、“風邪のときは歌えないもの”として認識されたままだが、その固定概念を打ち破って、“もしかしたら声を出す方法があるのかもしれない”と考えその方法をしれば、乗り越えるコトができる場合もたくさんある。

 知り合いの弁護士が「ルールを知れば、戦える」と言っていたが、それと似ているのかもしれない。

 ただ知りすぎると今度は、見えなくてもいいコトも見えてしまうようになるので、その辺りが大変にムツカシイ。

 病床だからか、ハナシが堂々巡りになってきた。

 とにもかくにも、早く回復してコスモスでも眺めに行きたいものだと切に思う。

2006年10月09日

第七十九回『論理と感覚』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 小学校の児童たちの、お芝居の稽古が本格的に始まっている(詳しくは当劇団ブログで)。

 140人の児童たちは役者班・ダンス班・演奏班・合唱班などに分かれており、今のところ役者班のお稽古がメインとなっている。

 小さな役者たちのヤル気は目を見張るもので、個人差はあるものの「このシーンとこのシーンは日付が変わっているから、どうしようか」だとか、「怖い先生(の役)だからこの衣装でいいか」などと、“創る”というコトを心底たのしみキラキラしている。

 それもその筈で、なにせ彼らは、あまりに役者希望者が多くて“オーディション”で“役“を勝ち取った子たちなのだ。ウレシさもひとしお、真剣にやらねば落ちた友達にも申し訳が立たない、というわけだろう。

 役者たちをみていて面白いのは、あの年齢で既に“ロジック型“と”フィーリング型“に概ね分かれているというコトだ。

 役者同士お互いに意見交換をしつつも、なんだか理解し合えない部分がある。傍から見ていて、「どうやってわかり合うのか」「どこで折り合いをつけるのか」非常に興味深い。

 ワタシも欲張りなので、みんなのアイデアは極力採用したい。だからどうにもお互いわかりかねる様子だったら、やっとクチを挟むコトにしている。とくに“ロジック型“はある程度のヒントを必要とするようだ。

 “ロジック”であるというコトと“感覚的”であるというコトを、1人の人間の中に同居させるコトは難しい。が、正岡子規のように完全に同居した状態でうまくバランスを取り、必要なときに必要な思考タイプになれるヒトもいるようだから、大変に羨ましい。

 “ロジック”な友達とも“感覚的”な友達ともおおいに話し合い、協力し合って、バランスの取れた大人に育って欲しいものだなとココロから願っている。

2006年10月02日

第七十八回『ココロとカラダのご機嫌』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 “月見れば 千々(ちぢ)に物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど”

 百人一首にこんな歌がある。ヨミビトは大江千里だ。ちなみに“オオエノチサト“ と読むのであって、決して”オオエセンリ“ではない。

 月を見るとあれやこれやと物悲しい云々、という意味合いの歌だが、ワタシは月を見るとココロが洗われるようでとても好きだ。むしろ前向きなキモチになる。

 ここ最近、どうやらワタシは、マイナスのエネルギーを出すコトバを話すヒトのそばにいるととても疲れる、というコトに気付いた。食事すらまずくなる。大体そういうヒトに限ってペラペラとよく話すので、正直閉口してしまう。

 そういうヒトに対して、マイナスのコトバで返して気付かせようとしても、もう悪循環でしかないので我慢して聞いてあげるよりほかはない。

 マイナスのコトバは体調も顔も悪くしてしまう。人間関係だってそうだ。

 だから毎日少しずつ溜まったマイナスのコトバを、優しく夜空に浮かぶお月様を眺めては洗い流し、ココロとカラダのご機嫌を取るのだ。

 どうしてこんなコトに気付いたかというと、今回書いた脚本の題材が“詩”なので、いろいろと先人たちが遺した、優れた詩歌や文章などを読み漁ったからである。

 研ぎ澄まされた感性で鍛え抜かれたコトバたちを口ずさんでいると、ココロとカラダにエネルギーが満ちてくるような気がして、ワタシは大変ご機嫌になった。

 よく考えたら、親しい友人はみんなコトバの選び方が素敵だし、ジブンの書いている脚本の登場人物ですら、普段から意味もなくマイナスのコトバを話すヒトは出てこない。心底そういうコトバが好きではないのだな、と思う。

 シェークスピアの脚本でも、内容は悲劇であってもコトバは洗練されているから、やっぱり読めばご機嫌になる。

 普段からなるべくプラスのコトバを選んで、ジブンもマワリもご機嫌であればよいなと思う。

2006年09月25日

第七十七回『敵わない相手』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 子供嫌いのワタシが、小学生にお芝居の稽古をつけるという不思議なコトがまた起きている。実に4年ぶりのことだ。
 
 前回は90名くらいだったのが今回は140名という大所帯で、ハッキリ言って公演が終了しても全員の名前と顔が一致しないままかもしれない。悩みの1つである。

 それはさておき、先日第1回目の授業を終えて、子供たちの反応が上々だったコトに安堵している。
 ワタシがもう聞きなれてしまっているコトバー丹田・腹式呼吸・S音など…ーを生まれて初めて耳にして、目をキラキラさせていたのが印象的だ。

 表現のレッスンでも、仲間同士でアイデアがまとまると、「先生、練習してもいい?」と積極的にチャレンジしていた。すべてが彼ら彼女らにとって新鮮な出来事なのだ。

 教えればどんどん吸収するし、アイデアだってすばらしい。改めて子供たちの可能性を感じさせられるとともに、なんとなく“敵わないのでは”という気持ちになった。
 オトナになってある程度のリアリティを求めるようになってしまったので、想像力という点において、ジブンが劣っているように感じたらしい。

 “新鮮である”というコトはこんなにも凄いコトなのかという事と、給食は結構オイシイという感想を引っさげて、ホームグラウンドへ帰ってきた。

 このコトは今回のウチの劇団の公演体制にもかなり影響している。“いかに慣れずに慣れるか”を肝に銘じて、まるで恋をしているかのように芝居に取り組みたいと思うようになった。

 子供というのは美しいものなのだな、ワタシは大人になってしまったけれど、とちょっとロマンチになっていたら、「あのね先生、給食食べてるとき子供みたいだったよ!」「子供に見えたーあははー!」と児童たちに言われてしまった。

 久しぶりに学校で食べた給食が、“新鮮だった”のに違いない。

 精神的に安定していたとしても、意図せずして学んだり恋に落ちたりするコトがある。子供たちから学ぶコトは、これからも沢山ありそうだ。

2006年09月18日

第七十六回『昔のヒトがいうことには』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 まっさらの台本は良いもんだ。梅雨時からずっと悶絶しながら思案していたモノが、とりあえず2次元の形になった。

 先日みなで読み合わせをしてイメージが具体的になった。まだまだ台本をさわる余地があるように感じたので、役者には「変わるから」と伝えてある。

 私はいったん書き上げた台本を破壊するコトを厭わない。そもそも破壊と再生を繰り返すのが私のやるコトなので、もっとよくなると感じれば、当日であろうが追加・変更をする。
 といっても、いつもかなり早めの段階で固定できているので、当日になって役者たちをびっくりさせた経験は少ない。

 本番中に起こるアクシデントなども、役者にとっては変化に相当するだろう。 

 突然変更やアクシデントがあったときに必要なのは、適応力・瞬発力・集中力などであるが、これらを身につけてもらう1つの方法として、私は“普段から沢山失敗するコト”を勧めている。稽古中、何度失敗してもらっても構わない、と公言しているのだ。

 失敗すれば誰でも動揺する。しかしヒトはそれをすぐに立て直そうとする。失敗を繰り返すうち、たて直しのスピードも速くなってくるし方法も増えていく。気持ちにゆとりも出来る。

 “絶対失敗しない練習”をさせてしまうと、とても気の小さい役者になる。ダメだしを恐れる役者はつまらない。だいたい舞台にたっているのに、何にもおこらない日なんてないのだ。そしてまた、完璧であるコトほどつまらないコトは無い。
 
 それはアクシデントだけに限ったコトではなく、他の役者がいい意味で企んだものであったり、お客さんが劇場に入って反応するコトによって起きる変化であったりする。なんにせよ、何かがおこるのが舞台だ。

 昔のヒトは“失敗は成功のもと”なんて、とてもわかりやすいコトバでいいコトを教えてくれた。ある程度の失敗を許すココロがあれば、かえってモノゴトはうまくいくものなのである。

2006年09月11日

第七十五回『ホントウの目的は』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 昔ほどTVをみなくなった。理由は明確で、ただ単につまらなくなったからである。

 もともとそんなに観るほうではなかったし大人になった証拠なのかもしれないが、それにしたって観るものがかなり減ったなと感じる。「なぜだろう?」と思いながら日々を過ごしていたが、とあるバラエティを観ていて、あるコトに気付いた。

 そういえば、バラエティのあり方そのものがかなり変わってきている。

 よくありがちなのは、出演者がチームを組みゲームを競い合うもの。増えすぎてしまって見飽きた。だいたいプロスポーツならばともかく、自分が参加していないゲームをみてもあまりエキサイトしない。

 あとは視聴者に何かの大会に参加してもらうもの。例えばダンスの大会なんかはよく見かける。バラエティの中の1つのコーナーであればまだしも、毎週半分くらい大会の様子をみせられてもすぐに飽きる。

 他にも座布団を10枚集める番組だって、私たちの予想もつかない気の利いた答えを言うのが面白みだったのに、今は随分変わってきてしまった。

 勿論ゲームにしろ大会にしろコレは1例であって、いろいろと他にも要因はあるし、見せ方によってはかなり面白いものもあるので、一概にすべてがつまらないというわけではない。

 つまらない番組に共通して言えるコトは、TVを観ている私たちを「笑わせよう・楽しませよう」としてくれているようには見えないというコトだ。随分TVのフレームの中は楽しそうだけれども(ホントは大変でしょうが)、カメラの向こう側にいる私たちを、本当に意識して仕事をしてくれているのだろうか、と思うコトが多くなった。

 コントなどを作るのにはかなりの労力と時間が必要だ。トークで笑ってもらうには、それだけの技術と経験と、人物の魅力が必要だ。そしてそこには必ず“意図的に仕組んだ面白み”が存在するのだ。
 ゲームであればそれなりのアクシデントが“勝手に”生まれるし、大会であればそれなりの感動と試練が“勝手に”うまれる。しかし、実際に参加している側とTVを通してみている側には、かなりの温度差がある。
 
 おそらくゲームにしても大会にしても、例えば短いコントや“8時だよ全員集合”のような大掛かりなものを作るよりは、はるかにラクなのである。やっている本人たちは大変だけれども。

 しかし、ラクをして作ったものは、やはりそれなりの成果しか上がらない。

 芝居はライブなので、観客の空気が良くわかる。あまりにつまらなければ帰るヒトだっているし、ワタシもそうする。
 “観ているヒト達を意識する“というコトを忘れたときに、私たちのやっているコトはダメに成ってしまうんじゃないかと切実に感じる。

2006年09月04日

第七十四回『通行人A』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 ヒトは、どんな時にヤル気をなくすのだろうか。

 いろんな集団をみていて、ふとそんなコトを思うことがある。当然、個々でいろんなキッカケがあるが、大きいものの1つとしては「(自分は)ないがしろにされた」と感じた時、というのがあげられるのではないだろうか。

 例えばみんながもう既に知っている情報を、自分だけが教えられていなかったり、自分だけが何ももらえなかったり。提案を無視されたり、自分だけが誘われなかったり。自分の目の前でナイショ話をされたり。

 こういうことをされれば誰もが傷つくに違いない。ボクはワタシは景色ではない、と感じるだろう。そして「ワタシはちゃんと、何かの役に立っているのだろうか」と考えてしまうかもしれない。

 ギリシャ悲劇には“コロス”という人々が登場する。彼らは“群集”というふうにひと括りにされ、個性を与えられず、ただ芝居の筋を説明したりメインの登場人物の心情などを唱和したりする。ほとんど景色と混ざり合うように、無機質な感じの衣装を着せられ立っている。そんな役だ。

 しかしどんな集団であっても、ちゃんと“観て“いれば1人1人まったく違った人間の集まりであって、“コロス”みたいなものではないというコトは誰にでも容易にわかる。この細かく、そして尚且つ大きな違いを認め尊重するコトが、モチベーションを上げる第一歩であると考える。

 しかしこの当たり前のことが、ナカナカ出来ないのが現実だ。

 ワタシの台本には、“通行人A”のような名前の人物は出てこない。たとえ学芸会の台本であっても“児童@”“児童A”なんて呼ばせたくない。みんなみんな、魅力のある違うヒトなのだから。

 そう思うと、何かを教えたり指示したりする立場にあるヒトは、周りの人々をちゃんと“観る“能力のあることが肝要であるのだと改めて感じるのである。

2006年08月28日

第七十三回『立つとか居るとか』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 映画を観ていて最近とても気になるコトがある。何かというと、“ただまっすぐ立てないヒトが多い“というコトだ。
 どうもカラダがねじれている。一方の肩が下がっている。背中が曲がっている、チカラが入っている…。

 気になる。どうも、気になる。

 “立つ”というコトは芝居をやるヒトにとって、大変重要なコトだ。“舞台に立つ“なんていう特殊な言い方があり、これで普通に流通しているが、いつも不思議に思っていた。”舞台に立つ“とはどういうことなのだろうか。

 勿論このコトバは、実際に板の上に立っているコトではなく、死体でも何でも(死体なんて立ってない事がほとんどだろうし)、とにかく何かの役で出演するコトをさして日常的に使われている。

 ちょっと芝居経験のあるヒトを呼んで、「そこに立って」というと、必ずなんだか胸を張ったりなんかして格好良く(もしくは綺麗に)見せようと、意識的に“立つ”ヒトがほとんどだ。
 ヒトに見られることが常なので、なにやらやりたくなるのは良くわかる。

 …ここまで書いて、全部書ききれないコトに気付いた。ちょっと端折って書く。

 “ただ単に立つ”というのはとてもムツカシイ。何しろ無防備だ。無防備というコトは、そのヒトの持っているそのままの魅力しかそこにないわけである。どんな風に生きてきたのか、バレバレだ。

 バレるのは怖いから、それを隠すために無意識に身をよじり、重心を片足に掛け、ハスに構えて“立っ”ている。しかし芝居のスタートラインはやはり“ただ立つ”というコトからであって、ここからやっとその役をリアルに形づくっていくコトになる。 

 もっとも、“立ち方”にも流行があるように思うので、一概に言いきれないのかもしれないが、少なくとも“立ち姿”で、なんとなくそのヒトの今までの人生模様は感じられる。

 “ただ立つ”“ただそこに居る”。そのコトに自信の持てる人生であればよいな、と寝不足気味のぼやけたアタマでワタシは考えている。

2006年08月21日

第七十二回『エゴのはじけ飛ぶ音』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 たまには芝居色の濃いおハナシをちょっとだけ。
 
 役者をやらせてもらうときは、脚本と演出家に敬意をはらうようにしている。

 どういうことかというと、基本的にワタシは道具でしかない、と考えているというコトだ。究極に突き詰めてここまで考えないと、うまくいかない。

 以前プロのヒトとお芝居をした時、ジブンの都合のいいように脚本を変え演出を無視し、挙句台詞を7割程度しか覚えてこない、というヒトがいた。これでプロなのか、と思うだろうが、簡単に言えば、ギャラ次第でチカラ加減が変わるというコトである。

 ワタシは他の劇団などでも脚本も書くし演出もやるので、1人の役者のせいでどんどんつまらなくなっていく作品を感じながら、脚本家や演出家のキモチは如何ばかりかと、とても悲しい思いをした覚えがある。

 役者の仕事を「自己表現だ」と言い切るヒトが、ワタシはあまり好きではない。どう頑張っても“エゴ“は隠せないのだから、脚本に描かれたキャラクターを全面に出すコトに専念すべきである。

 身を切るような思いをして脚本を書く。登場人物たちは皆、ジブンの子供のように愛しい。その、登場人物のいわば“いのち”を役者に託す。私たちはそんな思いで脚本を渡す。ただし作品のことを純粋に考えて脚色するならばいっこうに構わない。

 舞台に立ってその“いのち”を生きるとき、役者は“エゴ“を捨て去る覚悟が必要だ。それがうまくいったとき、台詞という音は、”エゴ“のはじけ飛ぶ音に変わる。
穏やかで凄まじく、気味が悪くて気持ちいい、そんな複雑で予想もつかない、ヒトそれぞれの音がする。

 そして、ヒトそれぞれの音、それもまた“エゴ”である。だから、どう頑張っても滲み出てしまう。でもそれはとてもいい滲みかたであって、それをヒトは“個性”と呼ぶ。

 ちょっと、真面目なおハナシ。日常、あんまり役に立たないかもしれない。強いて言うならば、“エゴ”を抑えるというコトは“謙虚”である、といったところだろうか。コノ辺りは、おっさん(和尚さん)にでも聞かないと。

2006年08月14日

第七十一回『ブレイクスルー』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 動物というのは切羽詰ると物凄いエネルギーを出す。“モノスゴイ”を漢字で書きたくなるくらい、爆発的で突発的なチカラである。

 例えばワタシの大嫌いなゴキブリ(以下Gとする)。追いかけるとカサカサいって逃げるのに、突き当りまで追い詰めると突然「クルッ」っとこちらに向き直って、「ババババババババ!!!」と物凄い勢いで飛んでくることがある。半端なく怖い。

 正直、Gが向き直った時いっしゅん目が合ったんじゃないかと思えるほど、空気が変わるというか、Gが開き直る瞬間がある。

 ニワトリを追いかけてみても、フェンスにぶち当たって観念したかと思いきや、やっぱり「クルッ」と向き直って、「クワアアアア!!!クワックワックワアア!!」と叫びながら(この時の口がまた顔中広がっているようでかなり怖い)、カラダを思い切り縦に伸ばし、羽を強くバタつかせながら小走りに追いかけてくる。半端なく怖い。

 別にワタシはシートンではないが、大概ほかの動物も、切羽詰るとおんなじような行動にでる。追い詰められた状態というのはもう、彼らにとって“死”を意味するわけで、何とかしてその状態を突破しようとするのであろう。

 ヒトもまた然り、である。

 こういう“切羽詰った状態“というのは、笑いの要素のひとつで、多くの喜劇的ストーリの中にふんだんに盛り込まれている。

 ヒトはしゃべるので、動物以上におもしろい。とにかくなんとかしてその状態をブレイクスルーしたいと思うあまり、妙なコトを口走り、やらなくていいコトをやる。それを、事情がわかった上で客観的に観ている人間は面白くてたまらない。

 そういった“切羽詰った状態”をいかに自然な形で創り出し、どう爆発的に開き直らせブレイクスルーさせるかが作家の腕のみせどころの1つであるといえるかもしれない。

 こんなコトを書きつつも、次の台本はまだ脱稿していない。これは意図的に、“切羽詰った状態”を創り出しているからである。

 …なんてコトはない。

2006年08月07日

第七十回『流行 ―はやり―』

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劇団上海自転車主宰(拠点・愛知) 中野菜保子

 久しぶりに、ショッピングモールを少しばかり歩いた。買うわけではないが、今どんなものが流行っているのかくらいは知っておくにこしたコトはない。

 大体は「ああ、お洒落だな」なんて思いながら、ちょっと手に取ってみたりもするのだけれど、たまに「これはいつ・どのように着るのだろうか?」というものがあったりもする。

 何にでも(ダンスも音楽も髪型もメイクも、会社の経営まで)“ハヤリ“というモノはあって、いうまでも無く芝居にだって”ハヤリ“みたいなものはある。これらは時代を映す鏡であるから仕方が無い。

 私よりも7〜10歳くらい離れているヒトたちの時代は、ちょうどアングラが“ハヤリ”で、芝居中、必ずといっていいほど“独白”(自分の心情や状況などを延々と1人で話す。周りにいるヒト達には聞こえていないという設定)が入っていた。

 “独白“はかなり長台詞である場合が多い。あまり詳しくは書かないが、演技の良し悪しはこの長台詞でバレてしまうので、イットキ、長台詞があると物凄い勢いで捲し立てて無駄にテンションをあげ、言い切ってしまうという演技が流行った。

 私が大学で演劇をやっていた頃、少しだけこの残党がいたので、「早口すぎて台詞が聞き取れないですよ」といったら、「格好いいからいいんだ」といって取り合ってもらえなかった。

 彼は卒業記念にと鴻上尚史さんの劇団を受けたが、鴻上さんに「キミの演技は重みが無いね」と一蹴されて帰ってきたということで、爆笑の渦だった。

 “ハヤリ”だからといって、そこにホントウの意味での価値があるのかどうかはわからない。かといって「“ハヤリ”になんか振り回されないぞ」、と気張っているのも勿体無い。とりあえず“知る”というコトはとても大切なコトだからだ。

 私はどちらかというと受け身なタイプだが、誘われればタイガイの事には首を突っ込む。元来がお祭り好きなのだ。

 “ハヤリ”を知りつつも、ホントウに価値のあるものを見分ける冷静な目を持つことができれば、タニンに振り回されることなくモノゴトを楽しむコトができる。そんな気がする。

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